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2019年5月27日 (月)

5月27日に日本海海戦の授業をします

今日は令和元年5月27日。

  

今日は学校訪問というのがあって、

教育委員会の先生方が授業を見に来ます。

 

私は社会の授業を見てもらいます。

得意の「今日は何の日」クイズが導入です。

 

5月27日は1905年(明治 38年)に

日本海海戦があった日です。

この日本海海戦を授業で行うことにしました。

クイズは、「5月27日は、日本が〇〇〇と戦った日」とします。

海戦の様子は、もちろんドラマ「坂の上の雲」です。

以前、このドラマは授業で使いました。

ここでも道草 スペシャルドラマ「坂の上の雲」日本海海戦の映像を使う(2017年12月8日投稿)

Rimg1472

Rimg1468  

今回が2回目です。

このドラマについて、いい機会なのでもう少し勉強。

次のサイトを見ました。

坂の上のサインボード 坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その1 (2011年12月)

一部引用します。

  

旗艦「三笠」の旋回運動が終わったとき、

バルチック艦隊は右舷の海に広がっていた。

距離はわずかに6千400メートル。

右舷の大小の砲がいっせいに火を吐いた。

目標は敵の旗艦「スワロフ」である。

敵の将船を破り、全力をもって敵の分力を撃つ。

距離はほどなく5千メートル台になった。

兵員の姿がお互いに見える距離である。

5千メートル以内に近づくと、日本軍の命中率は更に良くなった。

東郷は敵に打撃を与えながら、艦隊の進路を変えた。

常に敵の進路を押さえるためである。

ロジェストウェンスキーの旗艦「スワロフ」は集中攻撃を浴び、

炎上している。

東郷はかねて、「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。

味方の被害ばかりわかるから

いつも自分のほうが負けているような感じをうける。

敵は味方以上に辛がっているのだ」という

かれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、

この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出しては

自分の気を引き締めていた。  

 

東郷の言葉になるほどと思います。

何キロも離れている相手の様子は、

よくわかりません。

  

  

日本海海戦の勝敗は、各艦の性能や兵員の能力で

決まったのではなかった。

日本側の頭脳考え方が敵を圧倒した勝利といえた。

一つ目は、南朝鮮の鎮海湾でバルチック艦隊の

到来を待っていたとき、東郷は射撃訓練を徹底的に行ったことである。

これは東郷自身の苦い経験からきたものだった。

砲弾は容易にあたるものじゃない、

準備と鍛錬が必要であるということを、東郷は知っていた。

二つ目は、東郷とその部下が開発した射撃指揮法であった。

砲火指揮は艦橋で行い、それに基づき、

各砲台は統一した射距離で撃つのである。

多くの戦艦が一斉に同じ角度で射撃するといった工夫であった。

三つ目は、敵との距離に応じて、

東郷が弾の種類を変えたことであった。

遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾を使い、

距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き、

大穴をあける砲弾を使った。

さらには、敵前での艦隊運動の見事さ。

また、東郷が自らの艦隊を風上へ風上へと持っていったことも

命中率のアップに役立った。

「天佑の連続だった」と、戦後、秋山真之は語ったが、

その「天佑」の裏付けには、考えぬかれた知恵と

ぬかりない準備が存在した。司馬遼太郎氏はいう。

「弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、

弱者の特権である考えぬくことを行い、

さらに、その考えを思いつきにせず、

それをもって全艦隊を機能化した、ということである。」  

  

  

「天祐」とは、「天の助け」のこと。

射撃訓練・射撃指揮については、ドラマでも描かれていました。

それは弱者が強者に勝つために必要だったということでしょう。

 

では勝った日本が、よかったのか。

戦争にはハッピーエンドはありません。

さらに引用。

  

こうして、約1年半続いた日露戦争は終止符を打った。

開戦当初、諸外国の誰もがロシアの勝利を予想した戦争に、

日本はかろうじて勝利した。

ロシアが自ら敗けたといった方が正しいかもしれない。

ここで、シリーズ第1部5話のエンディングの

ナレーションが思い出される。

「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、

無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。

その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」

「古人曰く勝て兜の緒を締めよ」

という真之の訓示は残念ながら後世に伝わらず、

“勝利のおごり”によって、やがて無謀な戦争に

突き進んでいったことは、歴史の知るところである。  

 

  

勝った日本は、後年、中国との戦争に始まり、

太平洋戦争へと突入していきます。

多くの人が亡くなります。

  

  

日本海海戦での死者数をここに書き留めます。

※参考:Wikipedia 日本海海戦

日本側 117名

ロシア側 4830名

 

歴史的な大勝利と言われますが、

117名の肉親はそう思えるでしょうか。

いやいや、亡くなった本人にとっては、

やはり無念だったでしょう。

  

やはり戦争はダメだと結論づけたい授業です。

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