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2019年1月

2019年1月31日 (木)

アナログ版「道草」登場・・・昔はもっと生徒と社会科のことを話していた

今日は1月31日。

  

まもなく平成31年の1月が終了。

その前に道草をひとつ。

 

先日、この記事を書きました。

ここでも道草 「八甲田山の日」/アナログ版「道草」を復活させたいと思った朝(2019年1月23日投稿)

屋根裏からアナログ版「道草」を下ろしてきたいと

書きました。

屋根裏に行くための階段は、天井から降ろすのですが、

その部屋が散らかっていたために、降ろせませんでした。

娘の部屋です。

片付けるように再三言っていたら、

やっときれいになって、階段を降ろせました。

 

アナログ版「道草」が入ったクリアーファイルを

一つだけ下ろしてきました。

1991年1月~3月の原稿が入っていました。

今は2019年1月だから28年前ですね!

中学校勤務でした。

社会科を教えている学級には、

「道草・社会」という通信を書いて、配付していました。

1枚紹介。

Photo_2

この原稿を刷って中学校の生徒に配付していました。

1991年1月10日に書いた記事です。

  

冬休みに、ノートに記事を貼ってコメントを書いてくる宿題を

出したようです。

こんなことを書いています。

  

社会科は、授業だけのちっぽけな教科ではありません。

日々、身のまわりで、日本で、そして世界で社会科に

かかわる出来事はおきています。

・・・あなたはそのこと、つかめましたか?

  

28年経ちましたが、この発想は変わらないなと思います。

「変わらない」というより、28年前もそんな発想を持って

いたのだとビックリしています。

 

今の私が特に参考になったのは、

通信に生徒の声を載せていること。

生徒の声を載せるのは、新任からの私の常套手段

・・・・でした。でも今は全くやっていません。

最近は配付する通信を書いていません。

この「ここでも道草」が思ったことを書く主舞台。

生徒がブログにコメントを書くことを禁止しているため、

一歩通行のものになっています。

  

以前中学校に勤務していた頃に比べて、

社会科のことで生徒と意見交流をすることがあまりないと

気がつきました。

昔は授業や通信「道草・社会」の感想を通信に載せたり、

生徒が活動したことを載せたりしました。

それをブログ上でできたなら、ブログへの関心が高まり、

ブログを見てくれる生徒が増え、

私が伝えたいことがもっと伝わると考えます。

社会科の授業も一方通行気味。

その授業だって改善されると思います。

 

そうなんだ。

もっと昔は生徒と社会科のことで話していました。

今は少ない。

何か消化不良だったのはこれだね。

 

屋根裏から下りてきた1枚のアナログ版「道草」が

今の私にヒントを与えてくれました。

何か方法を考えて、2・3月に実行しよう。

  

  

  

ちなみに、新聞記事の長野県上伊那。

花きの大産地になっています。

JA上伊那HP 花き

ここにこう書いてあります。

  

生産量日本一を誇るアルストロメリア、

上伊那オリジナル品種が中心のトルコギキョウ、

さまざまな種類があるユリを三本柱に、

上伊那は50品目以上の彩り豊かな花々を

全国各地へ出荷している一大産地です。

  

  

28年の頑張りが実っているようです。

 

2019年1月30日 (水)

大河ドラマ「いだてん 東京オリンピック噺」で、浅草十二階に出合う

今日は1月30日。

  

今年の大河ドラマも面白い。

いだてん 東京オリンピック噺

Photo NHK大河ドラマHP

  

うれしいのは、浅草十二階が見られたことです。

テーマソングの背景画で何回も出てきました。

1月6日の初回放送の時の写真を並べてみます。

Rimg1483

Rimg1484

Rimg1485  

3回も出てきます。

さらにドラマの中でも出てきました。

Rimg1486_2  

ドキドキしちゃいました。

  

以前から気になっていた建物だったのです。

なぜか?

  

20年以上前のことです。

関東大震災のことをせっせと調べていた時がありました。

インターネットなど普及していない時代。

勤務していた中学校の図書館で、いろいろ調べていました。

その時に、関東大震災で崩れ落ちる浅草十二階の写真を

見ました。そのショッキングな写真(絵?)は強烈でした。

それ以後、私にとって気になる建物になりました。

  

その時の写真(絵?)がネット上にないか探しました。

  

  

あった!

  

これです ↓

Photo_2 仰陽記

久々に出合えた絵(ですね)。

出合った図書室の景色や、本の雰囲気が目に浮かんできます。

 

ね、強烈な絵でしょ。

  

ついでに、崩れた浅草十二階の写真を転載してみます。

Jeq00100000400 日本の地震災害 写真特集

Main_ryounkaku_11 明治大正1868-1926

  

たった3枚の絵・写真でも、浅草十二階に魅かれませんか?

浅草十二階(浅草公園凌雲閣)については、

上の写真のあったサイト「明治大正1868-1926」が

読み応えがありました。

  

映画「帝都物語」でも浅草十二階倒壊が描かれているようです。

「帝都物語」は、平将門の祟りも絡んでいる映画。

教材研究もかねて?見てみたくなりました。

  

 

いだてん 東京オリンピック噺

1月20日放映の第3回放映でも、たっぷり浅草十二階が

出ていました。

主人公の金栗四三(かなくりしそう)と親友の

美川秀信(みかわひでのぶ)が熊本から上京して、

浅草見物をするシーンです。

Rimg1488_2

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Rimg1491_2

Rimg1492_2  

これは明治43年(1910年)のこと。

浅草十二階が崩壊するのは大正12年(1923年)のこと。

金栗四三は1924年のパリオリンピックにマラソン代表で

出場しています。

ということは、ドラマで関東大震災が描かれ、

浅草十二階の崩壊がきっと表現されるぞ。

また将来の楽しみが増えました。

 

  

「武士は勝つことじゃ」と言った平清盛

今日は1月30日。

  

前投稿に引き続き、大河ドラマ「平清盛 27 宿命の対決

(2012年7月8日放映)より。

  

このドラマでは、平治の乱のクライマックスは、

大将の平清盛と源義朝の一騎打ちでした。

その結果、清盛が義朝を抑え込み言います。

  

Rimg1481

清盛:武士とは勝つことじゃ。

  いかなることをしても勝ち続けることじゃ。

  お前は負けたのじゃ。

  義朝!

  次などない戦に、負けたのじゃ。

  

Rimg1482

義朝:源氏は滅びない。

  我が身は滅びても、源氏の魂は断じて滅びぬ。

  清盛、また会おう。

   

  

「武士は勝つことじゃ」と言った平清盛。

これ以後の勝った武士が政権を取る武士の世の中を

表現していると思います。

  

この後、義朝は本拠地である東国をめざして敗走。

その途中で、昨日書いたように、

今の知多半島の豪族長田氏に殺されてしまいます。

ここでも道草 知多半島に行く/義朝最期の場所(2011年8月4日投稿)

義朝のお墓は愛知県にあります。

  

2011年の8月は、前日にテレビ番組「その時歴史が動いた」を見て、

義朝のお墓が県内にあると知って、夏休みであることをいいことに

出かけています。

テレビを見て、それを確かめに行く。理想的な動きをしていました。

おかげで今回授業で紹介できます。

  

  

「我が身は滅びても、源氏の魂は断じて滅びぬ。」は、

後の歴史を予言しています。

源頼朝と源義経らは成長し、平家打倒を目指します。

  

以上、今朝の教材研究終了。

平治の乱/飛んでくる矢を払うシーンが目立った

今日は1月30日。

  

昨日に引き続き、大河ドラマ「平清盛 27 宿命の対決

(2012年7月8日放映)より。

  

今回は飛んでくる矢を刀で払うシーンに注目します。

  

  

大内裏に突入した平重盛。迎え撃つ源義平

Rimg1491  

重盛が放った矢を、義平が刀で2回払うシーンがありました。

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さらには、同じ大内裏の戦いで、

源義朝の三男源頼朝が平清盛の三男平宗盛

弓矢でねらうシーンがありました。

Rimg1486  

   

初陣だった宗盛は、ヘビににらまれたカエル状態。

Rimg1487  

矢を放つ頼朝。

Rimg1488  

宗盛危うしと思った時、宗盛の前に立つ家来の伊藤忠清

飛んでくる矢を刀で払います。

Rimg1489

Rimg1490  

   

 

大内裏からおびき出されて賀茂川までやってきた義朝軍。

待ち構えていた清盛軍の3000の弓矢隊が、頼朝軍をねらう。

このシーンは壮観。少し大きめの写真です。

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忠清の命で一斉に放たれる矢。

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頼朝軍を頭上から襲う矢。

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その矢を刀で必死に払う義朝。

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Rimg1479  

  

今回の平治の乱の映像の中で、

飛んでくる弓を刀で払うシーンが目立ちました。

 

疑問をもちます。

重盛も頼朝も、かなり近い距離から矢を放ちます。

はたして本当に、刀で矢を払えるのでしょうか。

そして、3000の矢。

映像のように、雨のように矢が襲っていたのでしょうか。

恐怖だっただろうなと思いました。

 

 

同じ疑問をネット上で見つけました。

Yahoo!知恵袋 刀で飛んできた矢を払う

引用します。

  

大河ドラマなんかででてくる戦の戦闘シーンで、

飛んできた矢を、刀で、パシィィィィィッと

払うシーンを見ます。

実際に、あんなことは可能だったんでしょうか。

距離にもよりますが、矢って、

相当のスピードで飛んでくるような気がしますが・・・。

それとも、バッテイングセンターで

ハイ・スピードボールのコーナーで、

とりあえずバットに当てることができるぐらいの難易度で、

まぁ、練習でもすればなんとか何とかできるレベルなんでしょうか。

(2009年11月 sun********さん)

 

この人も大河ドラマを例にあげています。

2009年の記事なので、「平清盛」(2012年放映)を

見たわけではありませんが。

  

解答を転載します。

  

アーチェリーをやっていました。

当時、メーカーが競技用の弓矢を機械的に

発射したもの(リリースロス=0)の初速を

スピードガンで測定すると210~220kmでした。

実際に選手が扱うとなると200km以上の初速では

技量的に無理で、全日本級の選手でも180km位になるように

弓具を調整していました。

(弦を長めにしたり太くしたりして調整できるのです)

飛び出した矢は、その後羽根によって生じる回転力

(これで矢を真っ直ぐ飛ばす)によって生じる

空気抵抗によって遅くなります。

大き目の鳥の羽根を使用すると顕著です。

実際に競技用の弓矢で初速と50m先の標的近くで

スピードガンでの測定をしたら、初速180kmで

的前120km前後でした。(射手は43P使用の全日本選手権出場者)

バッテイングセンターとの差は、

ボールと長さ1mもの矢の差がありますから、

体をかわしながら刀を振ればまず払えると思います。

【補足】大学の研究チームと県アーチェリー協会が

協力してやった科学実験なので、決してマネしないで下さいね!

(kou********さん)

 

勤務校の弓道部の顧問にも聞きました。

矢は鉄砲の弾や、飛んでくるボールのように点ではなく、

棒だから、刀で払いやすいと思うと意見をもらいました。

ただ実際にやったことはないし、試すことはできないので、

本当にできるかどうかはわからないと教えてもらいました。

  

皆さんはどう思いますか?

  

  

3000の矢のように、一度ピークに達し、落ちてくる矢は

かなりスピードは落ちていると顧問に教えてもらいました。

ただ日本の矢は、洋風の矢に比べて重いために、

比較すると威力はあるとのこと。

矢には毒が塗られているはずだから、

傷つけるだけでも効果はあったはずとのこと。

毒は様々だったようで、糞尿を利用することもあったそうです。

傷口から体内に糞尿が入ることで、

破傷風を招く可能性もありということです。

  

  

これを機会に弓矢の勉強もしてみたくなりました。

2019年1月29日 (火)

諫早市の先生に話を聞いて、諫早市の勉強

今日は1月29日。

  

先日、勤務している学校に、長崎市諫早市の学校に

勤務している先生が来校されました。研修のためです。

この機会に、短い時間ですが、諫早市のことを

いろいろ質問してみました。

Qは質問内容。Aは諫早市の先生の答えを聞いたメモ。

   

Q:「諫早市」の「諫」は間違えやすい漢字ですが、諫早市の子どもたちは、

  間違えずに書けるのですか?

A:「諫」は「カン」と読みます。小学生は小さい時から

  書き方を教えてもらっているので、正しく書ける子どもは多いそうです。

  大人のほうが間違えるそうです。

  

「諫」について調べました。

「諫言(かんげん)する」「諫(いさ)める」のように使います。

意味は「主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、

改めるように忠告する」でした。引用:コトバンク

「諫言する」は、ふだん使わない言葉です。

「諫」を「カン」と読むことを知っているのは、

さすが諫早市在住の方です。

  

  

Q:有明海の満潮時と干潮時の差は大きいですか?

A:かなり大きい。海水が川を逆流することもあるそうです。

  

雨が少し多めに降ると、河川によって排水できない状況になりやすく、

特に満潮と重なると、家屋の浸水被害があるそうです。

海が運んでくるガタ土と呼ばれる堆積物によって、

川の排水機能は失われ、浸水被害はさらに深刻になります。

諫早市の人たちは、雨の様子を見て、浸水被害が起こりそうだと思うと、

「この雨、やばいけん」と言って、早々帰路につくことがあるそうです。

高潮の時の被害も大きいそうです。

  

 

平成11年に潮受堤防が完成したことで、

干潟と潮受堤防の間には調整池ができ、

高潮や堆積物の影響が緩和され、排水がスムーズになり、

浸水被害は少なくなっているようです。

干潟の塩抜きをして、農地づくりをしているそうです。

グーグルアースで調整池に迫ります。

グーグルアース 調整池

Photo  

グーグルアース 調整池2

Photo_2  

上の写真の星印付近から調整池を

ストリートビューで見てみます。

ストリートビュー 調整池3

Photo_3  

ストリートビュー 調整池4

Photo_4  

思ったより、調整池は広く、

水をたたえているんだと思いました。

Q:潮受堤防の上にある道路を自動車で走ると快適ですか?

A:とても快適だそうです。走ってみたいなあ。でも遠い。

 

この道路も、ストリートビューで迫ります。

ストリートビュー 潮受堤防道路1

Photo_5  

ストリートビュー 潮受堤防道路2

Photo_6  

上の写真で、左側が調整池。右側が有明海。

  

平重盛「3つの”平”」/源義平「4つ目の”平”」

今日は1月29日。

  

昨日(1月28日)は「宇宙からの警告の日

1年前は特にこの日にこだわりました。

ここでも道草 通算5600本目の投稿/1月28日に思い出した番組(2018年2月1日投稿)

今日(1月29日)は「昭和基地開設記念日

1957(昭和32)年のこの日、

日本の南極観測隊が南極・オングル島への上陸に成功し、

昭和基地を開設しました。引用:今日は何の日~毎日が記念日~

  

さあ、今日はどんな日になるかな?

朝飯前にやっておきたいのは、テレビ番組の読み物化。

    

  

前投稿に引き続き、大河ドラマ「平清盛 27 宿命の対決

(2012年7月8日放映)より。

  

平治の乱。

本格的な平氏と源氏の戦いは、

大内裏(平安宮)の待賢門(たいけんもん)付近での、

平清盛の嫡男重盛と源義朝の長男義平との戦い。

 

重盛が待賢門を破る時にこんなことを言います。

 

Rimg1483  

重盛:年号は「平治」なり。

  今の都は「平安」ぞう。

  我らは「平氏」なり。

  「平」の字が3つそろって、こたびの戦に勝たんことを

  何の疑いあるべく。

  いざ、まいれ!

 

門を破って突入。そこにいた義平に向かって、

重盛が名のります。

Rimg1484

重盛:我こそは、平清盛の子、左衛門ノ輔重盛なり。

 

これに対して、義平が応えます。

Rimg1496

  

義平:「平」の字が3つと言うたが、我こそは源義朝が子、

  鎌倉悪源太義平。

  4つ目の「平」の字は、我が名にあり。いざ、戦わん!

重盛:かかれ! 

  

Wikipedia平重盛によると、3つの「平」についてこう書いています。

 

この戦いで重盛は「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、

ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の

右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ・・・・・

  

それに対して、義平が4つ目の「平」のことを言ったかどうかは、

説明がありませんでした。

でも、ドラマだけのことかもしれませんが、面白い言い合いだと

思いました。

  

もう一つ。

平重盛は「嫡男」、源義平は「長男」とありました。

「嫡男」とは?

goo辞書には、

嫡出の長男。あととり。嫡子。

とありました。

「嫡出」は、同じくgoo辞書には、

正式に婚姻している夫婦間に生まれること。⇔庶出。

とありました。

言葉の確認終了。

  

 

 

1つ思い出しました。

かつて、源義朝の最期の場所に行ったことがありました。

知多半島にあります。

その記事です↓

ここでも道草 知多半島に行く/義朝最期の場所(2011年8月4日投稿)

すっかり忘れていました。

ブログのおかげで「たぐる」ことができました。

  

  

今晩、まだまだ大河ドラマ「平清盛」のことを書きたい。

2019年1月28日 (月)

「平治の乱」を大河ドラマ「平清盛」で教えたい

 

今日は1月28日。

  

「新編新しい社会 歴史」(東京書籍)の68~69pは

魅力的な内容です。

武士の政権の成立」という大見出し、

院政と武士」「源平の争乱」という小見出し2つ。

重要な言葉は、白河上皇、院政、保元の乱、平治の乱、

平清盛、源義朝、太政大臣、後白河上皇、

宋との貿易、兵庫(神戸)、福原、厳島神社、平家物語、

源頼朝、源(木曽)義仲、源義経、奥州藤原氏、

一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い・・・。

すごいでしょ。

さらには、藤原頼長とか信西(しんぜい/藤原通憲)も説明したい。

さらにはさらには、「耳なし芳一」だって、

この2pのクライマックスで見せたい。

平家が東大寺の大仏を燃してしまった事件も語りたい。

忘れちゃいけないのが、弁慶。

弁慶と牛若丸(義経)との出会いの話もいい。

奥州藤原氏に義経が頼って行き、頼朝が討つ話は、

70pの「鎌倉幕府の成立」に譲ったとしても、

とっても贅沢な2pだと思います。

  

昨日の日曜日、関連する映像を見ました。

2005年の大河ドラマ「義経 35 決戦・壇ノ浦

歴史秘話ヒストリア ”悪の華”は平安の夜に開く

 ~キケンな貴公子藤原頼長~」(2011年1月放映)

2012年の大河ドラマ「平清盛 26 平治の乱

           「平清盛 27 宿命の対決

歴史秘話ヒストリア 異色の革命児、平安を動かす

 日本を変えたヒーロー平清盛」(2012年1月放映)

まんが日本昔ばなし 耳なし芳一」(1976年7月放映)

  

どれも見せたい。

でもそうはいかない。

どの番組のどの部分を見せるか?

迷います。

2005年の大河ドラマ「義経」は、

小学校勤務でも授業で使ったことがあります。

※参考:ここでも道草 大河ドラマ「義経」/守貞親王(2010年6月26日放映)

ここでも道草 大河ドラマ「義経」/平知盛(とももり)/耳なし芳一(2010年6月26日放映)

しかし、2012年の大河ドラマ「平清盛」は、

まだ授業では使ったことなし。

今回初めて使って見よう!

  

 

2012年7月8日放映の大河ドラマ「平清盛 27 宿命の対決」より。

  

Rimg1466  

平治の乱の配置図です。

番組冒頭で、戦う2人が分かりやすく言い放ちます。

Rimg1467

源義朝「平氏を滅ぼす」

  

Rimg1468

平清盛「源氏を滅ぼす」

  

  

これこそが平治の乱の内容を表していると思います。

源氏と平氏の雌雄を決する戦いでした。

まずは、ここを生徒に聞かせたいですね。

  

 

 

 

勉強になった照明器具の安全対策/さっそく実行

今日は1月28日。

  

昨日は日曜日。

地元の防災訓練に参加しました。

水消火器で消火器体験をしたり、

「地震に対する家具類の対策」という講話も

聞いてきました。

勉強になりました。

特に次の内容。資料のコピーです。

(クリックすれば、大きくできます)

Epson004  

天井からコードでぶら下がっていると、

揺れて、天井にぶつかって、

電球や蛍光管が割れて降り注ぐことがあるんだ。

今まで全く予想していなかったことです。

  

我が家では、父親の寝室が天井からコードで

ぶら下がっている照明器具でした。

父親のベットは、まさに照明器具直下です。

こうやって教えてもらったときがいい機会だと考えて、

さっそく百均で、洋灯吊(ようとうつり)と

針金を買ってきました。

※「洋灯吊」については、ほぼ5年前のこの記事参照↓

ここでも道草 「洋灯吊」はどうやって読むのか?(2014年1月31日投稿)

 

さっそく話を聞いた夕方には、揺れ・落下防止の

針金を4本セットしました。

見てください!

Rimg1464

やってみての実感。

こんなことで、照明器具は揺れません。

一安心です。

お勧めです。

2019年1月26日 (土)

カタジュタに関心をもった図

  

今日は1月26日。

  

前投稿に続いて、ウルルについて。

  

今までの記事で紹介してきた動画の中で、

「カタジュタ」という場所の名前が出てきました。

 

Youtube オーストラリア ☆ エアーズロック

Photo_14 

Youtube [世界遺産!] ウルル エアーズロックに登ってみた! オーストラリア

Photo_15  

 

あまり「カタジュタ」に関心を持ちませんでしたが、

次の図を見たら、好奇心に引っ掛かりました!

 

Schema_kata_tjuta_uluru ジャングルタイムズ

  

カタジュタは、ウルルと同じ地層だったの?

それはすごい。

この図の威力は並ではありません。

カタジュタとウルルは30㎞離れているそうです。

それなのに、同じ地層がちょうど突き出たところだったのです。

ちなみに「sandstein」は「砂岩」の意味。

  

  

グーグルアースで、カタジュタにも迫っておこう。

グーグルアース カタジュタ

Photo_16  

こんなところなんだ。

さらに、一つの画面にウルルとカタジュタを並べてみます。

グーグルアース カタジュタ/ウルル

Photo

  

以上です。

今晩はここまで。

おやすみなさい。

明朝、腰痛がウソみたいに治っていてください。

  


後記・・・「ジャングルタイムズ」に掲載されていた図は、

もとはWikipediaウルルに掲載されていた図でした。

ドラマ「みかづき」スタート/アボリジニの悲劇の歴史を知る

今日は1月26日。

  

今晩放映されたドラマ「みかづき」は良かった。

Photo_13 NHK

高橋一生さんはまた教師(塾の講師)役。

教えることが似合っている人に見えてきました。

知的で楽しそうな雰囲気がいいなと思います。

ドラマの原作者は森絵都さん。

この人なんだ!

小学校教師ならば、この作者名にピンとくると思います。

615cbdt4y6l_3 Amazon

ね、ピンと来たでしょ。

  

  

前投稿に引き続き、アボリジニについて書いていきます。

アボリジニの先住権や土地の所有権が、

かつてはどうだったのかに疑問を持ち、調べました。

そしたら、とんでもない歴史にぶつかりました。 

  

ジャングルタイムズより引用します。

 

なぜ、本来のウルルという言葉があったのに、

わざわざエアーズロックという名前を付けたのか?

様々な理由があるとは思われるが、

その理由の一つはアボリジニたちの悲しい歴史につながっている。

  

数万年もの太古よりオーストラリア大陸で生活してきた

先住民『アボリジニ』たちは、侵略してきたヨーロッパ人たちによって

大量虐殺された過去を持っている。

18世紀、オーストラリアに到達したヨーロッパ人たちは、

オーストラリアの先住民であるアボリジニの人々と出会った。

  

1788年1月26日、初代総督アーサー・フィリップ率いる

海兵隊らが流刑者と共にオーストラリアに上陸。

彼らは、狩猟採集民として自然と共存しながら

移動を続けるアボリジナルたちの存在を知ると

「アボリジニたちはオーストラリアの定住者」ではないとした。

すなわち「オーストラリアには誰も住んでいないから

勝手に使っていいよね!」と主張したのだ。

入植者たちは、自分たちの土地占拠を合法化しつつ、

アボリジニたちが自分たちの土地を不法に占拠しているとして

迫害していくこととなる。

  

イギリス人によるオーストラリアへの入植は、

1788年1月26日。(今日は偶然にも1月26日)

たった、231年前のこと。

アボリジニは約6万年前から、オーストラリアに住んでいました。

それなのに、イギリス人は、アボリジニは「住んでいない」

としたのです。

先住権も、土地の所有権も無視したのです。

  

さらに引用します。

  

さらに、アボリジナルたちは追い出されるだけに留まらず、

入植者たちのスポーツハンティングの対象とされたことも分かっている。

  

現存する当時の日記には

「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」との記述があるほど。

遊び感覚で日常的に虐殺が行われていたのだ。

現在エアーズロックと呼ばれている岩山は、

アボリジニたちの言葉でウルルと呼ばれていたわけだが、

友好的な関係を築こうとしなかったヨーロッパの人々が

彼らの言葉を使うことは無かった。

  

 

さらにWikipedia アボリジニから引用します。

  

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、

50万人から100万人ほどのアボリジニが

オーストラリア内に生活していた

言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

しかし1920年には約7万人にまで減少した。

人口減少の最大の要因はヨーロッパ人が

旧大陸から持ち込んだ伝染病(天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹など)

の流行によるものと考えられている。

それまでオーストラリアは旧大陸とはほぼ隔絶されていたため、

アボリジニはこれらに対する免疫を持っていなかったのである。

 

1788年からのイギリスによる植民地化によって、

初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚は

スポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した

「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記が

サウスウエールズ州の図書館に実際に残されている

1803年にはタスマニアへの植民が始まる。

入植当時3000〜7000人の人口であったが、

1830年までには約300人にまで減少した

虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、

組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという

数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、

水場に毒を流したりするといったことなども行われた

  

また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、

イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。

捕らえられたアボリジニたちは、ブルニー島のキャンプに収容され、

食糧事情が悪かったことや病気が流行したことから、多くの死者が出た。

  

 

まだアボリジニの悲劇の歴史は続くけど、

引用はこれぐらいで。もう十分でした。

晩に教材研究をしていて、

教科書の2行が気になって調べていたら、

このような歴史とぶつかってしまいました。

ドキドキしてしまいました。

いつも午後10時前後に寝てしまうのに、

この日は「本当にあったことなのか?」と

いろいろなサイトで調べていて、12時近くまで起きていました。

ネットだけ十分ではなく、本も探しました。

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この本がいいぞと思い、深夜でしたが、

ネットで図書館に予約しました。

この本で、またアボリジニの歴史を確認したいです。

  

  

Wikipediaから再び引用します。

  

ケビン・ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、

先住民アボリジニに政府として初めて公式に謝罪した。

同日の議会には約100人の先住民らが傍聴する中で、

同首相は「Sorry」の語を3度使い謝罪した。

議事堂の外には全国から詰めかけた数千人が

テレビを通じて謝罪の言葉を聞いた。

  

 

アボリジニの歴史は、生徒にも伝えました。

  

まだまだ知らないこと多し。

副題を思い出しました。

「明日迄の命の気持ちで、人生を!/ 不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

  

  

「ウルル」のことをもう一つ書きたい。

つづく

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