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2018年11月

2018年11月26日 (月)

「バンコ」とは何だ?

 

今日は11月26日。

  

ひとつ調べ忘れをしていました。

「バンコ」です。

この記事の中に登場します。↓

ここでも道草 JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その4(2018年11月25日投稿)

その写真を載せます。

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「バンコ」とは?

コトバンクによると、九州地方で使われる言葉で、

「腰掛け」や「ベンチ」の意味。

でも今回はこの意味ではおかしい。

 

いや、長い机や長い椅子の意味ならいいのか。

映像を見ると、確かにそのようなものである。

 

Wikipedia 縁台には次のように書いてありました。

  

九州各地に縁台を意味する「ばんこ」という方言形がある。

この語は、ポルトガル語 banco(英語のbench、bankと同語源)からの

借用語と見られ、縁台が外来であることをうかがわせる。

  

何と、BANK(銀行)の語源になったbancoから生まれた

「バンコ」が九州で使われているようです。

今回のJICAの動画に関わった人が、

きっと九州出身者であり、「バンコ」に慣れた人なのでしょう。

翻訳で、「ベンチ」ではなく「バンコ」を使った可能性あり。

もちろん、ニジェールで使われている言葉に「バンコ」が

あった可能性もあり。

真相はどうなのだろう?

  

 

「バンコ」を日常で使っている方、

このブログを見たら、ご意見ください。

JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その6

 

今日は11月26日。

  

前投稿に引き続き、この動画↓の読み物化をしていきます。

  

  

動画の最初に出てきたハリマトゥ・ハディ(25歳)が、再登場です。

  

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リマトゥ・ハディ:私は学校に入学した頃、

  ミミズが這ったような線しか書けませんでした。

  でも、学校で様々なことを学び、

  名前が書けるようになり、

  足し算を覚え、本も読めるようになって、

  どんどん世界が広がっていきました。

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  そして私は、ひとつの「夢」を持ちました。

  それは学校に行く前には

  考えもしなかった「夢」でした。

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  私は、そのために一生懸命勉強し

  名前も書けなかったあの頃から10年経ち、

  

  

  「夢」を実現しました!

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  私は・・・教師になりたかったのです!

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子どもたち:先生!

ハリマトゥ・ハディ:次は、この子たちの番です。

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  さあ!授業を始めましょう!

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子どもたち:はい!先生!

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ナレーター:これまで40000校にも及ぶ

  「みんなの学校」モデルを西アフリカ地域に普及させた

  「みんなの学校プロジェクト」

  地域住民、学校関係者、行政など学校を取り巻くみんなが一体となり、

  大勢の子どもたちに、学びの場を提供してきました。

  そして子どもたちは多くのことを学び、

  視野を広げ、将来の目標を見いだせるようになったのです。

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  「みんなの学校プロジェクト」は、教育へのアクセスや、

  質の改善によって、子どもたちに夢や希望を与えるとともに、

  学校を取り巻く人たちの信頼のネットワークを

  形作っています。

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以上です。

12分12秒の番組を読み物化しました。

よく練られた構成の動画であったと思います。

少しアフリカの教育の実態が見えてきました。

もちろん、この動画だけでは不明な点があります。

より詳しく知りたくなりました。たとえば・・・

JICAは日本の団体です。

日本人がどのように関わっているのか知りたくなりました。

同じ頃に作られた動画があります↓

この動画は、今回読み物化した動画を補完していると思います。

日本人も登場します。

この動画も読み物化するといいのですが、

私には時間がないなあ。

 

 

小学校の教師をやっている間に、

疎くなっていたものは、世界情勢だと思います。

中学校の地理の内容です。

教材研究をしていて、それを痛感します。

私の知識や、ためてある録画番組は少々古いです。

  

今はアフリカの今を勉強中です。  

 

JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その5

  

今日は11月26日。

  

今日は月曜日。

今日は期末テストで、社会科のテストがあります。

私が作成したテスト。何度も見直しましたが、

ミスがないといいな。

 

 

前投稿に引き続き、この動画↓の読み物化をしていきます。

 

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ナレーター:そして住民による支援は、物だけにとどまらず、

  グループ学習や補習など学習体制に向けた取り組みも行われました。

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元学校運営委員会担当者 アブドゥッライ アリ:

  住民と学校の間に信頼関係が芽生えたことで、

  住民が関心を持って積極的に学校に

  関わるようになったのです。

  

  

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若い男性A:僕は今、ニアメ市のコカランタ高校に通っています。

  色々なことを学ぶほどに、

  勉強が楽しくなってくるんだ。

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  いつか医者になって、国のために働いて

  恩返しをするつもりなんだ。

  

  

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若い女性A:私は、診療所で看護婦として働いています。

  ニジェールの乳児死亡率は、まだまだ高いんです。

  小さな命を、少しでも救ってあげたい。

  そう思っています。

  

 

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若い女性Aの母親:娘は、看護師になりたいという夢を叶えました。

  今では、学校に行かせてやれて

  本当に良かったと思っています。

  娘は私の・・村のみんなの誇りです。

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次の投稿に続きます。次でラストですね。

  

前投稿の教師の笑顔もよかったけど、母親の笑顔もいい。

  

学校で子どもたちが勉強している姿がたくさん映りました。

あのシーンを見てうれしくなるのは、

私が教師だからでしょうか。

子どもたちが学んでいる姿は、いいもんだなあ。

自分を向上させようとしている姿は、

私の中にエネルギーを生み出します。 

この映像の良さは、そんなところにもあると思います。

  

さあ今日も、今週も頑張ろう。

2018年11月25日 (日)

JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その4

 

今日は11月25日。

  

前投稿の続きで、この動画↓の読み物化をしています。

 

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ナレーター:「(みんなの学校)プロジェクト」ではまず、 

  委員選挙を民主的に行い、透明性の高い組織、

  学校運営に住民が参加しやすい土台を作りました。

  そして次に、住民が実際に学校運営に

  参加できるような活動計画を指導。

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  この活動計画では、住民によって選ばれた委員が中心となり、

  住民集会を開いて、よりよい学校を作るために、

  解決すべきことは何かをみんなで話し合いました。

  そして自分たちにできることから取り組んでいったのです。

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住民A:教室を新たに作ることや、文房具を揃えることなど、

  さまざまな意見が出る中、まず優先順位を決めました。

  そして、無理なく自分たちの力でできることから

  始めたのです。

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住民B:コンクリートは無理だけど、

  藁葺きの教室なら自分たちでも作れる。

  それを住民集会で言ったら、みんなが賛成してくれたんだ。

  

 

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住民C:誰かに言われたからじゃない。

  自分たちでアイディアを出し合って、

  みんなで学校を作ったのさ。

   

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ナレーター:藁葺きの屋根。土を固めて作った机、椅子。

  文字通り、住民による手作りの学校でした。

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若い男性A:1年生の時は、机も椅子もなかったんだ。

  それを見かねて村の人たちが、

  机と椅子をバンコ※で作ってくれた。

  ちょっとデコボコしてたけど

  ノートをとるには十分だった。

  とても、嬉しかったよ。

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若い女性A:教室には、村中の子供が集まっていました。

  フランス語を話したり、文字を書いたり・・・・

  ほとんどの子にとって、初めての経験でした。

  

  

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先生A:村の人たちが、住むところや食べ物を提供してくれたので、

  生活を気にすることなく、

  授業ができるようになりました。

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  教具や文房具も充実してきて

  私もすごくやりがいを感じてきたのです。

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次の投稿に続く。

  

先生の発言に注目です。

生活を気にすることなく、

 授業ができるようになりました。」

私もすごくやりがいを感じてきたのです。」

 

子どもたちが勉強できる環境に目が行きがちですが、

教師が教えることことができる環境だって、

尊いのです。

その気になれば、明日だって思う存分教えることができる

私の状況をもっと大事にしないいけないと思いました。

明日は何を子どもたちに伝えよう!

「やりがいを感じてきたのです」と言っている

先生の笑顔がいい。

※「バンコ」の意味を調べました(11月26日記)

「バンコ」とは何だ?  

   

JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その3

 

今日は11月25日。

  

間が開いてしまいました。

13日のこの記事の続きです。

ここでも道草 JICAの活動「Dream~みんなの学校が開く未来」その2(2018年11月13日投稿)

 

動画を読み物化しています。

  

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ナレーター:西アフリカには、めぼしい資源もなく、

  開発が遅れた国々がたくさんあります。

  その中でも、世界最貧国のひとつと言われるニジェール共和国では、

  2004年当時、初等教育の就学率は52%。

  中でも女子は40%にも満たない状況でした。

  

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若い女性A:学校は男の子が通うところ・・・

  幼い頃、両親にそう教わりました。

  友だちも私と同じように

  毎日家の手伝いをしていました。

  

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若い女性Aの母親:女は家事をするだけが仕事じゃないんだ。

  畑仕事だってあるからね。

  1年中、休みなんかありゃしないのさ。

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ナレーター:さらに学校でも、教室が足りなかったり、

  教員が休みがちだったりといった問題があり、

  親や住民たちは学校教育への不信感を募らせていました。

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若い男性A:学校には行ってたけれど、机や椅子、ノートもなかった。

  それに、先生が学校に来ない日が多かったね。

  だから、勉強があまり好きじゃなかったよ。

  

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先生A:当時は、給料の支払いが滞ることがしばしばありました。

  休みがちだったのは、そのためです。

  とにかく住むところや食べ物にも困っていて

  授業どころではなかったのです。

  

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元学校運営委員会委員長 サビティ ダン グルム:

     住民と学校との信頼関係が失われ、

  子供を学校へ通わせてもしょうがないと考える保護者が

  多かったのです。

  学校の環境を改善しようとしても

  住民の協力はほとんど得られませんでした。

  

ナレーター:こうした課題を解決するために、

  ニジェール政府は、住民と教員が一緒に学校を運営できるように、

  それぞれの代表で構成された学校運営委員会の設置を

  教育改革の柱として押し進めました。

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  しかし・・・・

 

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元学校運営委員会担当者 アブドゥッライ アリ:

  委員会は村の権力者に独占されており、

  保護者や住民の意見は

  学校運営に反映されませんでした。

  そのため、住民の協力は得られず

  学校運営委員会はほとんど機能していませんでした。

  

ナレーター:機能する学校運営委員会を目指して、教師や保護者、

  地域住民など学校を取り巻くみんなで、

  学校を運営していくことを目指して始まったのが、

  「みんなの学校プロジェクト」です。

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次の投稿に続く。

  

ここで疑問は、学校運営委員会がうまくいかなかった理由です。

権力者によって独占されていたとは?

勝手に想像はできます。

政府から下りてきた資金を、権力者が都合良く使っていた?

でもわかりません。

  

    

  

  

  

今年も行った定光寺・愛岐トンネル群

今日は11月25日。

  

11月23日に行ってきました。

昨年も行った瀬戸市の定光寺と愛岐トンネル群へ。

昨年は11月25日に行きました。山仲間と一緒でした。

ここでも道草 4連休の話/定光寺の紅葉(2018年12月3日投稿)

ここでも道草 4連休の話/愛岐トンネル群のパンフ 千歳楼 定光寺駅(2018年12月3日投稿) 

ここでも道草 4連休の話/愛岐トンネル群の写真群?(2018年12月3日投稿)

今年は親戚の叔父さん叔母さんと奥さんと一緒に。

ありがたいことです。

1年経って、また同じ場所に行ける。

生きている証拠です。

昨年行ったので、私が案内人でした。

  

今年の定光寺。

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遠く名古屋を望む。↑

  

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↓ 愛岐トンネル群の写真。今年も人が多かったなあ。

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今年も紅葉がよかった。

昨年がよすぎたので、今年は期待しないようにしていました。

昨年以上は、なかなか難しいので、

期待を裏切られることを恐れました。

 

しかし、よかった。

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昨年もこの木が主役でした。

幹や枝の形も魅力的なモミジの木です。

今回はシルエットもいいなと思いました。

2回目で、良さを再認識するのもいいけど、

新しい良さに気がつくのもいい。

     

  

Rimg0890  

昨年よりも人が多かったように思えます。

愛岐トンネル群。だんだんマスコミにとりあがられ、

私のようにリピーターもいたら、年々にぎやかになるでしょうね。

 

この愛岐トンネル群の管理をしている保存再生委員会のHPに

トンネルにかかる大きな機関車の幕についての

記事がありました。

いかした幕ですが、2017年4月に設置されたようです。

入る前は、トンネルの闇がバックなので、

機関車がくっきり見えます。

その幕をくぐって、トンネル内から外を見ると、

機関車のデザインが透けて外の景色を見ることができます。

その景色も好きですね。

今回も撮影しました。

Photo 愛岐トンネル群保存再生委員会HP

 昨年との違い。

トンネル群の入口の上り階段が新しくなっていました。

急な階段だったのが、

階段を長くして勾配をゆるくしてありました。

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↑昨年まで使っていた階段も見えます。

左に上っていく階段です。

確かに老人にはきつい階段だったことを覚えています。

  

JR定光寺駅の急な階段が閉鎖してありました。

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何か事故があったのかな。

見学時には一度にたくさんのお客さんが来るため、

危険防止のためでしょうか。

階段に関することが昨年と違っていました。

  

 

今度はいつ行くことができるかな。

 

2018年11月24日 (土)

日めくりより/「あみだくじ」「欧米人のシャワー好き」

 

今日は11月24日。

  

連休2日目も日めくりから。

「雑学王」(TRY-X)より。

  

「あみだくじ」と阿弥陀様の浅からぬ関係とは?

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このようなサイトがありました。

禅の視点 - life - 「あみだくじ」の語源と阿弥陀如来 ~身近な仏教用語~

 

このサイトからの引用。

 

あみだくじが生まれた最初期、室町時代のあみだくじは、

今とはちょっと異なった形をしていたと考えられているのだ。 

あみだくじが世間に流行したのは江戸時代末期だとされているが、

その発生は室町時代にまで遡ることができる。

現代のあみだくじは上から下になぞっていく形態が一般的であるが、

当時のあみだくじはちょっと違う形をしていた。

どう違うのかと言うと、縦線にあたる線が、

放射状に引かれていたのである。

放射状に引かれた線の中心部分には金額が記されており、

その金銭を当てるくじが最初期のあみだくじだったという。

つまりが、博打だ。

  

あみだくじの歴史は室町時代までさかのぼるです。 

お茶や生け花、床の間などなど、日本らしいもののうち、

室町文化を起源とするものは多いです。

  

次は光背の写真が必要です。

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66eeb3ce4db2cd269c49d2b5fbdf72950ec  

上記の「禅の視点」によると、

初期のあみだくじは、横線にあたるものがなかったそうです。

まさに光背の形をしたものだったのです。

 

  

もうひとつ。

 

欧米人は、なぜ「シャワー」が好きなのか? 

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そうかあ、そうだったのですね。

このこともネットで調べてみました。

このサイトが参考になりました。

世界遺産オンラインガイド カラカラ浴場

  

カラカラ浴場は心身をリフレッシュする場であったし、

社交の場でもありました。

皇帝や元老院議員も姿を見せ、市民と同じ浴室で過ごしました。

男女混浴でした。

  

引用します。

  

時代が下がるにつれ、退廃的な傾向が強まり、

公然と売春が行われるようになってしまいました。

柱の陰にはいつでも売春幹旋人が控えるようになったのです。

こうして、古代ローマの浴場は次第にキリスト教徒たちから

売春、飲酒、賭け事などの「罪悪の温床」と

非難されるようになっていきます

 

日めくりでは、キリスト教の禁欲的な面に視点がありますが、

浴場の退廃的な面も、浴槽に入ることがなくなっていった

原因のように思えます。

まだ見ていない映画『テルマエ・ロマエ』(2012年)が

見たくなりました。


YouTube: Thermae Romae -Trailer

ちゃんと2013年にテレビで放映された時に録画してありました。

 

 

2018年11月23日 (金)

昭和30年代には道路にたくさんゴミがあった?

今日は11月23日。

  

気になっていたことを、少し調べました。

以前、何かテレビ番組を見ていて、

日本は1964年(昭和39年)の東京オリンピック前は、

道路にゴミがたくさん落ちている国だったと

誰かが言っていました。

どの番組で、誰の発言だったか?

なかなか思い出せず。

でも気になっていました。

  

今の日本は、家庭で出たゴミは、

ゴミ袋に入れて、

ゴミの日に指定された場所に出しています。

それが当たり前になっています。

でも、それは昔からの日本の姿ではなかったのです。

  

私は昭和36年生まれですが、幼いために

昭和30年代の記憶はほとんどありません。

生存していたけど、知らない昭和30年代が気になりました。

 

インターネットを使って、

道路にゴミがたくさん落ちている国発言について調べました。

  

見つけました。

池上さんに聞いてみました 池上彰氏「日本人のマナーが良くなったのは1964年の東京五輪がきっかけだった」

  

う~ん、内容は一致しますが、

私が聞いたのは、池上彰さんの発言ではありませんでした。

でも内容は一致しているので、一部引用します。

   

いつ頃から日本人のマナーは良くなったと思いますか?

という質問に対して、池上彰さんが答えているサイトです。

池上さんは次のように答えていました。

  

きっかけは1964年の東京オリンピックでした。

当時、東京都は外国からのお客さんに見られても

恥ずかしくないようにと一大キャンペーンを張りました。

東京都内の各家庭に配布されたパンフレットには、

ゴミはゴミ箱に捨てること、痰を吐いたり、

立小便をしたりしないように呼び掛ける

注意事項が列記されていました。

当時、私は東京都内に住む中学生。

自治会総出で街の清掃作業をしたものです。

街頭にはゴミ箱が設置されました。

それまで道路に捨てていたゴミを、

きちんとゴミ箱に捨てる習慣がついたのは、その頃からです。

   

さらにこのサイトでも、池上さんの発言が紹介されています。

エキサイトニュース 

 

日本はいま街にゴミを捨てる人もいないけれど、

1964年の東京オリンピックの前に

一大キャンペーンが行われるまでは本当にゴミだらけで、

青山通りから渋谷は、風が吹くとゴミが舞っていた。

昔から日本は清潔好きで、行列はちゃんとつくる

優等民族だという発想がこわいですね。

民族の問題じゃない。発展段階や政治体制の問題なのに。 

   

今の日本では、道路にゴミを捨てることは、

皆無ではありませんが、あまりありません。

しかし、昭和30年代は道に捨てるのが

当然のようだったようです。

違うなあ。こんなに違うんだ。

昭和30年代、恐るべし。

「民族の問題じゃない」というのに共感。  

  

上記の「池上さんに聞いてみました」では

次のような発言もしています。

 

日本人は昔からマナーが良かった、

というのは過去を知らない思い込みに過ぎません。

ご質問者の指摘通り、海外での日本人のマナーも、

1970年代までは最低でした。

パリの高級ホテルのロビーをステテコ姿で歩いたり、

ブランドショップで爆買いしたりして、

ついでに顰蹙まで買っていました。 

海外で恥ずかしいことをして、

評判が悪いというニュースを日本国内で見聞きするようになって、

ようやくマナーの向上が始まりました。

同じことを韓国の人たちは1990年代に、

そしていま中国の人たちがしています。

 

やはり錯覚しているところはあるよなあ。

今の日本人が、昔からの日本人だと思ってしまいます。

職員会議の時に職員室がタバコの煙でもうもうとしていたのは、

つい30年ほど前のことです。

私は体験してきたので、そのことを知っています。

目にも浮かびます。

でも30年前を知らない若者は、

今の状況から、そんなこと想像できないことでしょう。

私が、ゴミだらけの道路が想像できないように。

  

こんな映像がありました。


YouTube: 昭和31年05月16日 皆さんのあと始末 0067

道路にあったゴミ箱が映っています。

このゴミ箱、見たことがある・・・うっすらと思い出します。

Photo

右に映っているのは、ゴミ収集車。

ゴミ箱に入っているゴミを集めています。

ゴミ袋に入れて、指定された場所に出すようになったのは、

いつからなのだろう?

日めくりより/「車のタイヤが黒い理由?」

今日は11月23日。

 

昨年に引き続き、愛岐トンネルとか定光寺に行き、

紅葉を見てこようと思います。

ここでも道草 4連休の話/定光寺の紅葉(2017年12月2日投稿)

2018aki_chirashiomote 愛岐トンネル群保存再生委員会 公式サイト

  

  

出発前に1本投稿。

日めくりより。「雑学王」(TRY-X)より。

 

クルマのタイヤが黒い理由は?

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タイヤの黒は、補強材のカーボンの色。

 

しかし、この常識が変わってきているようです。

次のサイトが参考に成りました。

ゴム報知新聞 タイヤは黒いがカーボンブラックはほとんど入っていない?

引用します。

  

タイヤの色が黒いのは中にカーボンブラックが入っているからです。

カーボンブラックはタイヤの補強材です。

昔からそう言われていました。だからタイヤは黒いのです。

しかし最近はそうも言っていられなくなったようです。 

(中略)

おおざっぱに言えば、現在日本で生産されている乗用車用タイヤは、

ほとんどすべてが低燃費タイヤです。

この低燃費タイヤのトレッドゴムには、

カーボンブラックはあまり入っていません。

大袈裟にいえば、カーボンブラックがほとんどはいっていません。

その代わりシリカ(ホワイトカーボン)が補強材として入っています。

しかしタイヤは白くありません。

それは少しだけカーボンブラックが入っているからです。

  

このサイトも参考になります。

車のタイヤ ホワイトカーボン(湿式シリカ)

ホワイトカーボンとは、名前にカーボンと付いていますが、

白い炭素では無く、白色のケイ素の酸化物で、

ゴムの補強剤として使われています。

このホワイトカーボンとは、

カー ボンブラックに対しての呼称であって、

カーボンブラックに次いで補強性がある為、

ホワイトカーボンと呼ばれています。

  

出発前の短い時間で勉強ができました。

それでは、行ってきます。

私の車のタイヤはどうなのだろう?

 

日めくりより/「追いかけてくる月」

今日は11月23日。

  

さあ、今日から3連休。

やりたいことをたくさんやりたいなあ。

道草も10本はやりたい。

まずは1本目。

久々日めくりより。「雑学王」(TRY-X)より。

  

なぜ、車窓から見る月は後ろから追いかけてくる?

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なるほど!と思った1枚。

ちなみに明日が満月。

空気が澄んで、昨晩の月もきれいに見えました。

Pixabayで月の写真を拾ってきました。

月は絵になります。

Fullmoon415501_1920

Dog647528_1920

Earth1365995_1920

Moon2762111_1920

Airplane659687_1920

Spacestation60615_1920 pixabay

  

こんな曲もありました。

曲名が「追いかけてくる月」


YouTube: 内田有紀 内田有紀/愛のバカ 01 追いかけてくる月

こんな歌詞でした。

  

どこまでも追いかけてくる月よ

僕と同じ速さで歩く

僕のこと見捨てないでおくれ

心臓が止まって 冷たくなってきて

この場所から 消えてしまうまで

 

月がどこまでも追いかけてくるように見えるのは

錯覚ですよと言ったら、興ざめですね。

  

詳しくはこのサイトへ。

科学で毎日を楽しくしませんか? 第19回 お月様が追いかけてくるように見えるのはなぜ?

  

  

来年もこの日めくり「雑学王」を使うことにしました。

注文しました。

Photo amazon

好奇心を刺激してくれる日めくりです。

次も日めくりより。

最近の写真

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