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2018年9月12日 (水)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その3

今日は9月12日。

  

再び田部武雄さんの話に戻ります。9月9日以来。

  

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

  

昭和9年10月15日、千葉県の谷津球場では、

第二回日米野球に備えて結成された全日チームが

練習に入った。

このチームは日米野球の期間だけ参加する選手と

日米野球が終了したあと発足するプロチーム(職業野球)、

つまり巨人軍と契約する選手に分かれていた。

契約第一号が三原脩、第二号が苅田久徳、

第三号が早稲田の未完の大器中島治康だった。

この中島の契約には早大関係者は驚いた。

ほとんど実績のない中島がなぜという声も聞かれた。

だが、この未完の大器は日米野球以後、

大きく開花するのである。

そして、慶應義塾大学への進学が濃厚だった

京都商業の沢村栄治も将来を高く評価され中退し、

巨人軍と契約した。

(115p)

  

巨人軍創立時の話は面白い。

その「巨人軍」という名前は、次のようにして生まれたようです。

あの鈴木惣太郎さんが関わります。

巨人軍の当初の名前は「大日本東京野球倶楽部」

ニックネーム「東京ジャイアンツ」誕生の話は、

この本よりもWikipedia レフティ・オドールがわかりやすかったので、

引用します。

  

現存するプロ野球チームとして最古の球団「大日本東京野球倶楽部」が

結成されたが、相手となるチームがいなかったため、

1935年(昭和10年)、同球団はアメリカ遠征を行った。

最初に訪れた地・サンフランシスコでシールズを率いていたオドールは、

対戦相手にチームのニックネームがないことに気づき、

大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、

ニックネームをつけることを提案。

その一案として、当時全米でヤンキース、ドジャースと

人気を分け合っていたジャイアンツを提案し、

鈴木もその案をチームに持ち帰り、了承される。

大日本東京野球倶楽部は1935年のアメリカ遠征を

「東京ジャイアンツ」というニックネームで行うこととなった。

 

  

そして次は「巨人」という名前誕生。

これは再び「天才野球人 田部武雄」より引用。  

アメリカー東京間の国際電報での連絡の場合、

「大日本東京野球倶楽部」という長い名称では、

交渉が煩雑になるという理由から

「東京ジャイアンツ」を日本語にして「東京巨人」にした。

(128p)

 

昭和10年のことでした。

それからずっと今まで「巨人軍」です。

電報で打つのに、短い名称が必要だからできた名称が

きっかけだったのですね。

何事も最初はささいなことですね。

重みは時の経過が作ります。

   

 

田部さんは、昭和10年の1月20日に契約をしています。

そして巨人軍は2月にアメリカ遠征をスタートさせます。

  

背番号はオドゥールのアイデアによって

和数字のものが用意された。

この和数字の背番号はアメリカの野球ファンを驚かした。

このときの背番号「三」が田部だった。

栄えある巨人軍初代背番号三の栄誉に浴したのである。

プロ野球発足前とはいえ、巨人軍初代背番号三は

紛れもなく田部武雄である。

そしてそれが、中島治康、千葉茂、長嶋茂雄の「永久欠番」へと

名選手の系譜が形成されていったのである。

(126p)

アメリカ遠征時の写真を載せます。

Image012 沢村栄治記念館HP

アメリカ遠征に向かう船上での写真です。

左から4番目が田部さんです。

右から5番目が沢村栄治さん。

 

つづく

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