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2018年9月15日 (土)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その4

今日は9月15日。

 

9月12日の投稿の続きで、

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

  

田部さんが華々しく活躍した時の一つが、

1935年(昭和10年)の東京巨人軍アメリカ遠征です。

  

たとえば・・・

 

10回表、(一番)田部は外角を巧く流してライト前ヒットで出塁。

初球、田部はいきなり走った。

脱兎(だっと)のごとく走り二塁ベースに滑り込んだ。

二番の矢島は左打者である。

そのために相手バッテリーはまさか田部が三盗はしないだろうと思った。

だが、田部は巧みにリードを取って三塁を陥れた。

隼のごとく三塁に滑り込んだのだ。

矢島の第四球目、本塁の砂煙が舞い上がった。

田部の姿が煙の中から出てきた。

猛烈な拍手が起きた。

試合は結局巨人軍が9対5で勝利した。

田部はヒットだろうが四球だろうが、

一塁べース上に立てば後は一人でホームに帰ってくる。

もし、田部がヒットを放ったところでトイレに立った客がいれば、

席に戻ってみるとスコアボードに1点が掲示されているのを

眺めて怪しむに相違ない。

なぜなら、矢島がそのままバッターボックスにいるからである。

投手がたった四球の球数を投げるあいだに

ベースを一巡してしまう走者がいようとは

誰が想像したであろうか。

不思議な現象に遭遇し頭が混乱しただろう。

だが、田部の快足を知れば納得するであろうし、

同時に塁間を駆け巡りホームスチールを見られなかったことを

悔しがるにちがいない。

(146~147p)

  

こんな具合です。109試合で105盗塁を記録しました。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ

「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、

アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。

  

痛快じゃないですか。

アメリカ遠征時の映像と思われる動画がありました。


YouTube: 田部武雄 

和数字の背番号「三」を背負った田部さんが映っていました↓

Photo

   

 

(昭和15年)首位打者は最後まで川上(哲治)と争った

鬼頭数雄(中京商業)が獲得した。

鬼頭は快足を活かしセーフティーバンドを決めるなど、

好打で川上に競り勝った。

鬼頭は打率・321の結果を残し首位打者の栄冠を手にした。

鬼頭は中京商業夏の甲子園三連覇のメンバーである。

その後、日大で活躍した。

その鬼頭も太平洋戦争が始まると応召(おうしょう)され、

歩兵第135連隊陸軍兵長として激戦のサイパンに従軍し

消息を絶った。

米軍の猛爆撃のさなか消えたのである。

(193p)

  

私が子どもの頃に野球に夢中だったときは、

巨人軍、川上監督、王貞治選手、長嶋茂雄選手が、

プロ野球の中心でした。

川上監督が昭和15年に首位打者を争った鬼頭選手。

注目したい。

(ちなみに昭和14年、16年に川上選手が

首位打者になっています。)

  

地元愛知県勢が夏の高校野球で3連覇していて、

それが中京商業であることは子どもの頃から知っていました。

昭和6年~8年のことでした。

そのチームにいたのが鬼頭選手でした。

名古屋市生まれ。

この人の特徴の一つに、左利きの2塁手だったことがあるようです。

※参考:鬼頭数雄:左利きの内野手

今に至るも、左利きの2塁手は珍しいようです。

 

 

上記サイトによると、鬼頭選手が戦死したのは、

マリアナ諸島沖とあります。

サイパン島はマリアナ諸島の一つ。

サイパン島に向かう移動中に亡くなったのか?

サイパン島での戦いは1944年6月15日から7月9日。

鬼頭選手が亡くなったのは1944年7月となっていて、

日にちは不明。

もう少し詳しく書いたサイトはないか調べました。

このサイトがよかった↓

職業野球異色列伝 鬼頭数雄

首位打者争い、戦死のことが詳しかったです。一部引用。

 

鬼頭と川上の首位打者争いがあったのは昭和15年のことだ。

この年のリーグ打率は2割0分6厘、チーム打率1位の巨人は2割3分7厘

という数字が如実に物語る通り、稀に見る「投高打低」のシーズンで、

一説によれば「最も粗悪なボール」を使ったとされる。

戦時下体制の影響から、連盟規定に沿う正規の使用球を作製できず、

使い古したボールや質の悪い代替品で作ったボールを用いて

公式戦をおこなっていたのだ。

このような状況下にありながら、鬼頭と川上は

シーズンを通して打率3割台を維持し続けた。

シーズン開幕の3月から対決の火ぶたが切られた。

中盤戦を終えた8月までの成績は、1位・鬼頭の3割2分4厘9毛に対し、

2位・川上は3割2分4厘6毛と、たったの3毛差。

球史初の〝厘〟と〝毛〟の差を争う死闘を展開、

川上をして「いっそのこと軍隊に入ったほうがマシだ」と

言わしめたほど熾烈を極めた。

そして、抜きつ抜かれつの大熱戦の末、

鬼頭が首位打者のタイトルを掌中に収めた。

だが、今日に至るまで「打撃の神様」に勝利した実績は語り継がれず、

歴史の影に埋もれたままである。

昭和17年2月、歩兵第18連隊第7中隊に入営し、

その後は歩兵第135連隊に配属。

昭和19年7月、マリアナ諸島サイパン島に消息を絶つ。

白木の箱には「鬼頭数雄」と書かれた、

薄くて小さい木板が1枚だけ入っていたという。

  

  

歴史の影に隠れて私には見えていなかった鬼頭選手を、

天才野球人 田部武雄」を読んだことで、

日の当たる場所に引っ張り出すことができました。

  

  

    

 

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