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2018年3月25日 (日)

20180304報告その8 会津墓地に行きました

 

今日は3月25日。

 

前投稿の続きで、3月4日に訪れた京都の寺社の報告です。

  

金戒光明寺の三重塔を見た後、会津墓地をめざしました。

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会津藩殉難者墓地(最後の文字は「地」だと思います)。

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ここで会津藩の勉強ができました。

墓地にあった由来碑。

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この由来碑を読むことで勉強ができました。

 

ここに頑張って書き写します。

だれか書き写していないかと思って探しましたが、

見つかりませんでした。

  

会津墓地の由来

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、

徳川幕府はついに新しい職制を作り

京都の治安維持に当たらせることになった。

これが京都守護職である。

文久二年(1862年)閏八月会津藩主

松平容保公は十四代将軍徳川家茂から

京都守護職に任ぜられる。

同十二月二十四日、家臣一千名を率いて、

京都に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて、

本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。

黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、

御所や粟田口にも近く、軍事的要衝の地であった。

また、大きな寺域により、一千名の軍隊も駐屯することができた。

当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝と化していたが、

守護職となった會津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあり、

翌年八月十八日には激派の公卿を追放し、

元治元年(1864年)六月には守護職配下の新選組による

「池田屋騒動」、七月十八日「禁門の変」の勝利などで、

治安は回復されてきた。

しかしながら會津藩の犠牲は大きく、

藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。

そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。

その数は文久二年から慶応三年までの六ヵ月に二百三十七霊をかぞえ、

後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百五十霊を合祀(ごうし)した。

松平容保公は孝明天皇の御信任厚く、

禁裏洛中を挙藩一致して六義を明らかにし、

会津軍の忠誠は歴史にその名を残した。

この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為に

この碑に由来を誌す。

  

松平容保公 都の歌会にて御詠

”窓前竹”

さす月よ うつるのみかは 友ずりの

こゑさへ きよし 窓の呉竹

 

平成十八年三月  建之

会津弔霊義会

会 津 会

東海会津会

京都會津会

  

 

  

ここまで書き写して、

何と、他のサイトで書き写している人がいたことを発見。

会津いん東京 京都黒屋篇 會津墓地の由来

  

金戒光明寺と会津藩との関係を全く知らなくて、

「科捜研の女」のロケ地巡りで金戒光明寺にやって来ました。

そこで、会津藩のことが勉強できたのは、とってもラッキーでした。

今回の記事は、由来碑を書き写していて十分疲れました。

  

つづく

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