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2018年2月18日 (日)

「21世紀脱・学校論」からの引用/「学校」の歴史

 

今日は2月18日。

  

前投稿に続いて「すべての教育は『洗脳』である 21世紀の脱・学校論

(堀江貴文著/光文社新書)から引用します。

  

僕もすくめ、一般的な学校教育を受けた人たちは皆、

「いざという時」のために学校に通わされ、

役に立つか立たないのかわからない勉強をさせられてきた。

その間はもちろん、やりたいことを我慢し、

やりたくないことも受け入れるしかなかった。

たとえば、受験、就職、キャリアアップ。

あるいは結婚、出産、子育て。

さらには定年退職、老後。学業だけではない。

多種多様な「いざという時」に備えて今は我慢しなさい、というのが

大人たちの理屈だ。  (6p)

  

 

ちょっと違うように思えます。

我慢するのは、その後に楽しいことが待っているという気持ちが強いです。

今は我慢の時。それを過ぎれば、楽しい時、

つまりやりたいことができる時が来ると信じていたと思います。

 

 

「やりたいけど、やらない」人たちの脳裏にあるのは、

「自分がまだ実力不足だから」という自己否定に他ならない。

やりたい、動き出したい気持ちはある。

右足はなんとなくアクセルペダルを踏んでいる。

でも同時に、左足でブレーキペダルをベタ踏みしている。

しかし、そのことに気づけない。

我慢が習慣化しているからだ。

学校教育が作り出すのは、こうした無自覚の習慣に他ならない。

(7p)

  

この文章は共感できるところがあります。

やりたいことがあるのに、今の自分はそんなことをやっていると

後ろ指を指される仕事しかやっていない。

仕事に対しての自信が、この年になってもなく、

それが今やっている仕事以外のやってみたいことをやることに

ブレーキペダルを踏んでいるのだと思います。

  

昨日も山登りを誘われていたのに、断りました。

岡崎の瀧山寺の鬼祭りがあったのに、行くのをあきらめました。

何をやっていたかというと、勤務校に行って、

教室の片付け・整備をしていました。

それはそれで、やり遂げた感は味わえましたが、

やりたかったことは後回しにしました。

今日、ポックリ死んでしまったら、後悔するだろうなあ。

でもこれって、昨日の仕事が「我慢」になっているんで、

問題ではあります。

  

  

なぜ学校は恣意(しい)的な(勝手な)常識を

人に押し付けようとするのか?

その常識によって、どんな人間を育てようとしているのか?

一言でいえば、従順な家畜である。

社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。

したがってその養成段階であう学校で

子どもたちに道徳規範を叩き込まれ、

学力という形で「従順さ」に点がつけられていく。

受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、

ひたすら情報処理能力を磨いていく。

そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」だ。

企業からすると高学歴な人間は、理不尽な作業への

耐性が強いという判断になる。

いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのは、

要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

(21p)

 

学校は、そこに通う人間を、とにかく「規格」どおりに仕上げようとする。

建前上は「個性を大切にしよう」「のびのび育ってほしい」などと言うものの、

その裏にはいつも「ただし常識の範囲内で」という本音が潜んでいるのだ。

(22p)

 

教師は子どもたちに同じテキストを暗記させ、

同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。

赤点を取ったり、問題行動を起こしたりした子どもは、

どうにか「規格内」になるように尻を叩く。

そして「会社」に納品する。

(23p)

  

堀江さんは、学校誕生の歴史に触れていきます。

  

一定の年齢に達した国内の子どもを1箇所に集め、

読み書き計算を教える。

こうした学校制度の基礎は、19世紀、

つまり産業革命期のイギリスで生まれた。

当時のイギリスは、ヨーロッパの覇権をいち早くつかみつつあった。

そして重火器の発明や、その大量生産を可能にする工業力増強の動きが、

社会に産業革命をもたらした。

この時庶民は、「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」

という新しい働き方を得た。

そして、工場を作る資本を持つ富裕層、つまり資本家たちは、

「いかに大勢の働き手を集め、効率よくマネジメントしていくか」という

課題を抱えることになった。

「会社」的な世界観のはじまりである。

(23~24p)

  

工場の誕生によって、古くからの家庭内手工業に従事していた

職人たちが一斉に職を失う。

同時にその子どもたちも、「親の後を継ぐ」という道が閉ざされ、

文字通り路頭に迷った。

産業革命以前、子どもは立派な労働力の一部であって、

保護する対象ではなかった。

だから(産業革命)当初、子どもたちは大人と同じように

工場で働かされ、劣悪な労働条件や大気汚染の中、

猛烈な勢いで死んでいった。

さすがにこれではまずいということで、

政府が主導して作ったのが「学校」である。

学校の大きな役割は2つあった。

1つは子どもの保護。

そしてもう1つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと

育てあげることだ。

(24P)

  

学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、

「産業革命に適応した大人」を大量生産する

「工場」の1つだったのである。

今の学校も、この原則はまったく変わっていない。

学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の

予行演習のようなことばかりだ。

たとえば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、

ボス=教師の言うことへの服従・・・・。

そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な

「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、

「常識」せっせと教え込まれているのである。

(25P)

 

  

今のような「学校」が存在するのは当たり前とは思いません。

教えるー教えられるの関係はあったと思いますが、

今の「学校」のように、たくさんの子どもたちを

強制的に集めて教えるー教えられるシステムは、

確かに歴史は浅いと思います。

だから、「学校」がこれからも今のままではないと思います。

これから変わっていくのでしょう。

堀江さんはもうこれからの「学校」が見えるのかもしれません。

   

ただ私は「望ましい労働者」を育てている発想はあまりありません。

確か澤口俊之さんが言っていたと思いますが、

人生を幸せに過ごさせるためだと思っています。

本人だけでなく、本人と関係する人たちをも幸せにする

そんな人物を育てたいです。

そのために澤口さんはHQ(人間性知能)を育てることを

提唱しています。

今の世の中、これからの世の中の仕組みを教師はきちんと認識して、

子どもたちが上手に対応し幸せになれるように育てたいです。

澤口さんの考えを書き留めたことあり↓

※参考:ここでも道草 「『やる気脳』を育てる」からの引用(2013年6月28日投稿)

※参考:ここでも道草「『やる気脳』を育てる」からの引用 その2(2013年6月29日投稿)

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