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2017年8月18日 (金)

本「アメリカの教室に入ってみた」より5(最終回)・・・一人ひとりのプライドを尊重する方法

  

今日は8月18日。

  

昨晩の投稿に引き続いて、

アメリカの教室に入ってみた」(赤木和重著/ひとなる書房)より引用します。

出勤前の一仕事。朝食前の”朝飯前”

 

New Schoolで行われている異年齢教育のことを、

赤木先生は「流動的異年齢教育」と呼んでいます。

「流動的」をつける理由を、赤木先生は次のように言っています。

  

(1)活動によって異年齢になったりならなかったりすること。

(2)異年齢集団の人数も質も、1日の中で様々であることによります。

「異年齢集団でなければいけない」という固定的な教育ではなく、

あくまでも目的に応じて様々な集団がつくられます。

(161p)

  

学習形態について少し引用します。

  

「1年生だからこの教科書を学習する」という決まりはありません。

あくまで、それぞれの子どもの理解や関心に応じて

学習内容が決定されます。

例えば、私の娘は英語ができませんので、

年長児が用いるテキストを用います。

一方、算数に関しては、語学のハンディがあまりありませんでしたので、

結果として、自分の学年より上の内容を学んでいました。

「年齢」や「学年」といった「外」から学習内容がやってくるのではありません。

あくまでも理解に応じて子どもの「内」から学習内容が決定されます。

この点は重要です。

異年齢教育と言うと、どうしても「つながり」が重視されます。

下の子どもは、上の子どもにあこがれ、上の子は見守る力がつく・・・・。

確かにそのような側面はあるのですが、New Schoolの場合は、

そのような異年齢ペアや集団だけが重視されているのではありません。

むしろ、コントラクトに象徴されるように、

徹底的に「個」が重視されています。

「異年齢ありきの異年齢教育」ではありません。 

(175p)

  

でも・・・学習内容や誰と一緒に勉強しているかで、

自分の勉強のランクがわかり、劣等感に陥ることはないのかと

勘繰りたくなります。

でもでも、New Schoolは徹底しています。

学年、学級(クラス)を取っ払っているので、

保護者であっても、自分の息子や娘が何年生か把握していないそうです。

私が体験していない世界。

そんなことをご心配無用なのでしょうか。

子どもたちの中にも、他の子との比較をしない習慣ができているのでしょうか。

  

  

赤木先生は流動的異年齢教育の意義を3つ挙げています。

①自己肯定感が強くなる

②社会性の発達を豊かにする

③「障害」という言葉をことさら意識しなくなる

  

この中で①②は特に日本の教育に漬かっている身には印象的でした。

関連するところを引用します。

  

①・・・

1つ目は、自己肯定感が高くなる(正確には自己肯定感が低くならない)ということです。

日本の学校のように、「同じ年齢の子どもたちだけで、同じ教材を用いて学び、

同じ目標が立てられ、同じ評価を受ける」教育の場合、どうしても他の子どもと

「できる/できない」が見えやすくなります。

特にテストであれば、友達の優劣が点数という形ですぐにわかります。

テストだけでなく、行動面でも同じです。

「席から外れる」という行動も、みんな同じようにしなければいけない状況では、

目立ってしまいます。

その結果、子どもたちは、他者との比較の中で自分の学力や行動を

評価する傾向が強まります。

そして一部の「できる」子をのぞいて、多くの子どもが「できない」ことを

突きつけられ、自己肯定感が低くなりやすくなります。

一方、New Schoolでの学習形態は、そもそも友達との比較がしにくくなっています。

同学年で学んでいませんし、誰1人として、

他の子どもと同じカリキュラムで学んでいる子はいません。

一人ひとり学んでいることが違うために、

「他の子どもに比べて、できる/できない」ことがわかりにくいのです。

(188~189p)

  

日本の教育が当然になっている時に、New Schoolの実践は刺激的です。

比較によって、今の日本の教育形態はこれでいいのかと考えさせられます。

  

③・・・

3つ目は、「障害」という言葉をことさら意識しなくてもいい意義です。

New Schoolには前述したように、障害のある子どもが、

およそ4分の1在籍しています。

日本のように、「同じ年齢の子どもたちが同じクラスで学ぶ」という

「同年齢学級」が基本であれば、障害の子どもが目立ちます。

みんなと同じことを同じようにするのは、どうしても難しいからです。

そのため、「できなさ」は「障害」と直結しやすくなります。

「計算ができない」「じっとできない」「一方的に話す」などが

障害特性として顕在化します。

しかし、New Schoolのように流動的異年齢教育をとっている場合、

「障害」は目立ちません。

そもそも、年齢がまぜこぜのまま授業をしていますので、

「一律の基準」なるものが存在せず、比較しようがないのです。

さらに、障害のある子どもの学びは、他の子ども同様、

その子の「できる」部分から出発します。

そのため、その子が「できない」姿が見えにくくなります。

もちろん、障害ゆえに、なかなかできにくい姿があったり、

調子の波が大きいことはあります。

しかし、それでも、自分のできる・わかるところから出発しているために、

「できなさ」が目立つことはありません。(中略)

 

感覚的な表現で恐縮ですが、一言で言うと、

この学校に通っていると、「ほっとする」んですよね。

みんなと学んでいるのだけど、「平均に比べて遅れている/進んでる」

という視点がこの学校にはありません。

「『みんなちがってみんないい』を推進しましょう!」

といった心がけのレベルではなく、

また、教師の力量や態度がそうさせるのではなく、

学びのシステムとして必然的に他者と比較した評価をしなくなります。

 

こうして「他者比較」から抜け出ると、障害の部分が見えにくくなります。

すると、障害のある子どもは、のびのび学び、

自分を表現できるようになります。

実際、公立小学校では、1対1で先生が常にサポートしていた

行動障害のある子どもが、New Schoolに来てからは、

マンツーマンは必要がなくなりました。

(192p)

 

特別支援学級の担任としては印象に残る文章です。

通常学級の中で委縮してしまったり、

通常学級に行くことを生き渋っている子どもたちを見ているからです。

何か変えないといけないことがあるんだよなあ。

残りの夏休みに考えたい。

  

  

いよいよ最後。

  

New Schoolの学習形態がなぜ生まれたか。

古参の先生がこう言ったそうです。

  

「どの子もバカって思われたくないよね。

それを突き詰めたらこんな形の学校になったの」

(192p)

 

赤木先生はこう書いています。

 

どの子も自分が劣っているとは思われたくないし、思いたくないものです。

小さな子どもも、障害のある子どもも、障害のない子もみな同じです。

その願いを大事に大事にしたら、流動的異年齢教育に行きついたのです。

個々を大事にすることを突き詰めることが、

多様性のある集団に行きつくという結論は、

不思議なような、面白いような、納得するような、そんな感じがします。

インクルーシブ教育や異年齢教育が、先に「よきもの」「正しいもの」

としてあるのではなく、一人ひとりのプライドを尊重することが

最初にあったのです。   (192~193p)

「一人ひとりのプライドを尊重する」

ここが大事だよなあ。

子どもだってプライドがあるんだ。

それを尊重してあげる方法を考えてあげないとと思います。

残りの夏休みに考えるぞ。

いい本に出会えてよかったです。

朝飯前には終わりませんでしたが、出勤までにはできました。

これだけの文章が昨晩消えてしまったのです。

怒、ショック!でしょ。  

 

行ってきます!

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