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2017年3月31日 (金)

「バリバラ」はどうやって生まれたか?

 

今日は3月31日。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る。

今日で、その3か月が終わります。

いろいろありましたね。忙しかった。

でも短く感じちゃう。

やはり1年は4月からスタートであって、

1~3月は前年の残り?のイメージがあるためかな。

まあ、今日もいろいろやって、新年度を迎えたいです。

  

NHKEテレの番組「バリバラ

最近では昨年12月11日放映の

バリバラ 突撃!障害者殺傷事件」を見ました。

昨年の7月26日、神奈川県相模原市で起こった

大量殺人事件に迫っていました。

内容についてはここ↓

バリバラHP 突撃!障害者殺傷事件  

ずっと関心を持っていた事件でしたが、

別の角度から迫っており、新鮮でした。

「容疑者の考えに賛成するところもある」という投稿者のもとに

障害者がレポータとして取材に行く場面が特に印象に残りました。

2人の対話は充実したものであり、その様子を見たゲストが、

投稿者はいい加減に書いてきたものだと思いきや、

その人はその人でまじめに書いてきていたんだと気がついていました。

  

この「バリバラ」について、いいニュースが配信されていました。

これです↓

Yahoo!ニュース 日本一攻めているバラエティ「バリバラ」はどうやって生まれたのか?

「文春オンライン」というのが配信元だと思います。

このようにスタートしています↓

Photo  

「バリバラ」がどうスタートしたか書かれていました。

このニュースはいずれ消えてしまうでしょう。

引用してここに残しておきたいです。

一部引用していきます。いや、ほとんどかな。省略ができない。

  

福祉番組の「感動ポルノ」的な作りを脱出したかった

 日比野は最初、耳を疑ったという。大阪放送局の制作部長(当時)の泉谷八千代にこう言われたのだ。
「『きらっといきる』をどうやって終わらせるか考えときや」
 泉谷は『バリバラ』の前身の福祉番組『きらっといきる』を立ち上げた張本人だった。日比野はもともとNHKに入局して5年ほどは『あすの福祉』などの福祉番組を制作していたが、その後「美術系の番組をやりたい」と希望し、東京で約10年、美術番組を手がけ「幸せな」日々を送っていた。
 だが、2009年、突然日比野は大阪に呼び戻され『きらっといきる』のプロデューサーに就任したのだ。
 番組は改革しようともがいていた。
 MCに若者向けラジオDJの山本シュウと、自立生活センター職員で自身も脳性麻痺の障害のある玉木幸則を迎え、より障害者の現実に即したリアリティのあるものに変えようと意気込んでいた。しかし、なかなか突破口が見つからなかった。
「山本シュウさんと玉木幸則さんは必死になって『俺たちは福祉番組を変えるために来たんだ!』という意気込みはあるんだけれど、周りが付いていけてない。番組って、やっぱりそれに合ったデザインが必要じゃないですか。それがうまくいっていなかった。例えばナレーション1つ取っても、当時はしっとりした声のアナウンサーの方にやってもらっていたんですけど、そうするとそれこそ『感動ポルノ』的な作りになっちゃうわけです。音楽もそう。そういう作りの中で、切り込み方を変えても、印象は今までと変わらない。
 収録前の打ち合わせでインサートVTRを見てもらうと、MCからは『またこんな感じなの?』って大体言われるわけです。僕たちだって取材段階では取材先の障害者に悩みや困っていることを聞くんです。けど、カメラ回したら、取材対象はがんばっちゃうんです。悩んでいるところじゃなくて、がんばってるところを見せたくなる。だって、テレビカメラの前で主人公になれるなんて、一生に1回あるかないかじゃないですか。誰だってがんばっちゃいますよ。大変でくたばっているところとか、怠けているところは本人は見せたくないわけですよ。
『きらっといきる』はどちらかというと、障害者が施設から街に出て、地域で暮らそうという時代の流れの中で、『こんな人たちがいますよ』と紹介していく番組だったんです。最初の立ち上がりはよかったんだけど、もう10年も経って、街のバリアフリーもそこそこ法律で整備された中で、『あれっ、もう10年たっても同じことやってていいんだっけ』というのに気づき始めた。でも、どう変えていいか分からない。『きらっといきる』の延長でやっている限りにおいては変わらないなあ、と」

障害者同士が本気で笑いを取りに行く姿に出会う

 障害者の多くは、「自分の障害が原因で困難なことは、自分で乗り越えていかなければならない」と社会に思い込まされている、と日比野は言う。
 だが、本来問題があるのはその障害に対応していない社会のほうだ。そうした問題を訴え続けていたのが玉木が勤めていた自立生活センターだ。
「ディレクターたちが、自立生活センターに行くと障害者がわんさかいて、結構元気のいい人たちがいるんです。それこそ自分の主張をちゃんと自分の言葉で言える人たちがいて、『笑っていいかも!?』(『バリバラ』レギュラー化前に放送された特番)でやったような大運動会を実際に普段から毎年1回やっているんだという話が出てくるんです。
『究極のハンデ戦』といって、一番障害の程度が低い人は50メートルから。で、もうちょっと程度が重い人は25メートルから。本当に体が寝返りを打てるかどうかって人は1メートル前から、フラッグを取るタイムを競うんですよ。それがとにかく面白い。さらに、僕が玉木さんに聞いたのは、言語障害のある者同士で『早口言葉言い合って遊んでんねん』とか、障害者の言葉を聞き間違える若いヘルパーたちを笑い飛ばしているとか。そういう当たり前のことを当たり前のようにして楽しんでいる。またかくし芸大会みたいなのもやっていて。それをかなり本気でやるわけです」
 そんな話を番組の打ち上げで話しているとディレクターたちはみんな目がキラキラしている。「こんな風にやれば面白いよね」とバラエティ的な企画として話すとどんどんアイディアが膨らんでいく。障害者の当事者でもある玉木もノリノリだった。もちろん、酒の席の戯言。そこにいるほとんどの人が「実現したら絶対に面白い。けれど、それはムリだろう」と思っていただろう。だが、日比野は、玉木が乗り気であることで、もしかしたら可能なのではないかと思い始めていた。

「みんなザワザワしとったわ」

 そこで日比野は、『きらっといきる』の中で月に1回、それをバラエティ番組化することにした。
 その企画を部長の泉谷にもっていくと意外にも彼女は「ああ、おもろいやん。ええんちゃう」とあっさり了承した。
 泉谷は、日比野のその企画を、各部長が集まる部長会議で発表。重度言語障害者が何を言っているかを当てる「最強ヘルパー養成塾」や、精神障害の世界を描いたカルタ「幻聴妄想カルタ」などを説明したのだ。その会議から帰ってきた泉谷は事も無げに笑って言った。
「めっちゃおもろかったで。みんなザワザワしとったわ」
「とんでもない部長やなと思いましたね(笑)。だから、理解してくれる豪傑な上司がいて、非常に恵まれた環境だったというのはありますよね。ただ、根本的に『バリバラ』は、障害者を笑いものにする番組では決してないということと、福祉番組をどうやって新たな次元に持ち上げようかという、いわゆるチャレンジングな試みであるということはちゃんと分かっていましたから。そして、やっているメンバーが福祉をきっちりやってきた、ドキュメンタリーを経験してきた人たちばかりですから、差別的なところに絶対踏み込まないだろうという安心感があったと思うんですよね。こいつらがやっている限りにおいては、そこのところは間違えないはずだと。逆に普通のバラエティをやっている人たちがいきなり入ってきて障害者バラエティをやろうとしたら、『ちょっと待て』となったかもしれないですけど」

  

「笑ってあげよう」と思わせたらアウト

 しかし、企画を思いついてそれにGOサインが出たからといって、実際に実現させるためには相当な覚悟が必要だったはずだ。だが、日比野は、「そんなになかったですよ」とあっさりと言う。
「誤解されるんじゃないかというような不安や恐怖はないことはなかったけど、それよりも、やってみたいという好奇心のほうが勝ってた。だって、日本のテレビ番組史上、きっと誰もやったことないことだから。それは、テレビマンとしてやってみたいジャンルである。悔しがる連中は絶対いるはずだというのもある。そして、それは実は僕たちしかできない、という自負もある。
 僕もテレビっ子で『オレたちひょうきん族』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』とか『進め! 電波少年』とかをずっと見てきたから、できるだけ冒険的なものをやりたいと思ってきた。いつでも自分のやりたいことをやりたいという気持ちで、番組って楽しんでなんぼという感じを持ってやってきているので」
 たとえば、障害者たちが漫才やコントで競う企画「SHOW-1 グランプリ」が顕著だが、視聴者に「障害者ががんばってるんだから、笑ってあげよう」などと思わせてしまったら、絶対にダメだ。だから、ある意味でこの企画で芸を見せるのは、普通のお笑い番組以上にハードルが高い。
「だから、多分『SHOW-1グランプリ』に出ている連中からすると、本当に障害者に一番厳しい人って日比野じゃないかってみんな思っていると思う。『あのプロデューサー、ホントに障害者に厳しいよね』みたいな(笑)。『これじゃ駄目だ。もっとこうしたほうがいい、もっとこうしたほうがいい』ってギリギリまでダメ出しをスゴいするから。彼らはいろんな障害があるので、その中には、変更が苦手な人たちもいるんですよ。最初に決めた通りにやりたいんだけど、台詞回しをちょっと変えるだけでも、それはそれで大変なわけです。でも、例えば『M-1グランプリ』とか、出たくても出られない芸人たちがたくさんいるわけですよ。そういう人たちの世界が一方であって、ある意味でそこからは排除されている彼らにとって、ここは1つの場なんです。そこでクオリティーを下げると次の『SHOW-1』がなくなるよ、と。『SHOW-1』って結局障害者ががんばってお笑いをしている姿を見て、笑ってあげる番組になったらアウトだから、それはディレクターも一生懸命やってくれた。最初の原型の台本から、そこからすごい練習と、ブラッシュアップは欠かさずにずっとやってましたよね」

  

生放送で寝たきり芸人を「放置」した理由

『24時間テレビ』の真裏で生放送した「感動ポルノ」批判の回では、スタジオに寝たきり芸人「あそどっぐ」がカッパの格好で、一言も喋らず、司会者たちからも何の説明もなく、ただそこにいるだけという演出をあえて行った。
「寝たきりだけど、彼はプロの芸人だから、なんでもやるし身体も張ると本人も言うんです。じゃあ、寝たきりの人を生放送でずっと一言もしゃべらせずに放置するのはテレビ史上絶対にないからやってみようと。テレビのおもしろさって何かっていうと、『何だろう。どうなるんだろう。あいつは何だろう』っていうようなザワザワした感じだと思うんです。『あの寝たきりは何だろう?』と思わせたほうが、やっぱり、見ている人も関わろうとする。自分から調べてくれるじゃないですか。あの放送の後、Yahoo! の検索で『バリバラ』と入れたら第2検索ワードに『カッパ』って出るようになりましたから(笑)。
 ちょっとそういう悪戯をやってみたかっただけっていうのもあるんですけど、そこには1つ、やっぱり大きな意味があって。『障害者って何だろう?』って、知らない人が考えてくれる、そこが一番大切だと思っているんです。感動しなくたって障害者ってそこにいるわけですよ。面白くもあったり、訳分からなかったり、いろんな部分があって、今までの自分が持っていた障害者像を壊してもらう装置としては抜群な装置なんですよね。
 僕らはほんとに疑問形でいいと思っているんです。答えを出すつもりは全くないので。障害者問題って答えがない問題なので、それぞれが考えなきゃいけない。われわれが伝えたいのは、障害者をはじめとするマイノリティの人たちは、決して自分たちと別世界にいるんじゃなくて、同じ世界にいる人たちなんだということなんです」
 

ひびの・かずまさ/1964年、京都府出身。1990年にNHK入局。現在、NHKプラネット近畿総支社番組制作センター統括部長。『バリバラ』制作者として放送文化基金賞、日本賞ノミネート、ギャラクシー賞奨励賞を受賞しており、今も『バリバラ』の制作に関わっている。

  


これからも見ていきたい番組です。

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