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2017年1月

2017年1月30日 (月)

なぜカラスは「烏」と書くの?

 

今日は1月30日。

  

1月4日の撮影↓

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カラスです。

ハシボソガラスでしょうか。

  

同じ日に別の場所で撮影↓

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これもカラスと思って撮影しました。

アップにしてみたら、お馴染みのハシブトガラス、

ハシボソガラスではないように思えました。

もしかしたらミヤマガラス?

   

「カラス」を漢字で書くと「烏」です。

「鳥」と違って、横棒が1本ありません。

なぜそうなったのでしょう。

  

カラスのひみつ 生態と行動のふしぎをさぐろう

(松原始監修/PHP)

引用します。

  

なぜカラスは「烏」と書くの?

「鳥」という漢字は、鳥のかたちから生まれた象形文字です。

カラスを漢字で書くと、「烏」ですが、これには、

カラスが全身まっ黒で、目がどこにあるかわからないため、

「鳥」の字の目にあたる4画目の線を取って、

「烏」になったという説があります。   (60p)

 

この説を授業で子どもたちに紹介しました。

その時のものです↓

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カラスの顔をよく見ると、確かに目はわかりにくいです。

2017年1月29日 (日)

ハッブルのこと その6/太陽系は中心から外れ、人類もまた結果的にそうなった

  

今日は1月29日。

  

前投稿に引き続いて

昨年11月24日放映「コズミックフロント NEXT 宇宙の革命児!

エドウィン・ハッブル」より。

  

この番組は、今現在youtubeで見ることができます。

私の文章を読んでも、イメージが浮かばない方は、

ぜひこの映像を見てください。


YouTube: 〔コズミックフロントNEXT〕天文学の革命児! エドウィン・ハッブル〔Cosmic Front Next〕

  

今晩書くのは、上の映像だと24分25秒付近からの内容です。

  

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ナレーター:ワシントンにあるスミソニアン博物館。

  1920年、ここで、渦巻き星雲の正体にいどむ

  大論争が行なわれました。  

  「グレートディベート」です。

  壇上に立ったのは、ウィルソン山天文台のハーロウ・シャプレー。

  そしてリック天文台のヒーバー・カーティスです。

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  シャプレーは、渦巻きを生まれたての星と、

  それを取り巻くチリやガスの集まりと考えました。

  ちょうど太陽系が誕生する時の状態です。

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  そしてそれらは全て「天の川銀河」の中にあると主張したのです。

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  一方、カーティスは、これに真っ向から反対します。

  渦巻きは「天の川銀河」と同じような大量の星の集まりだと

  考えました。

    そして「天の川銀河」の外側の、ずっと遠くにあるものだと、

  主張したのです。

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  このカーティスの説に、ハッブルも所属するウィルソン山天文台の

  研究者たちは、猛反発します。

  根拠としたのが、メンバーの一人、ヴァン・マーネンのデータです。

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  マーネンは、観測データから、渦巻きが回転していると主張します。

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渦巻き星雲の渦巻きが回転していることが、

どうしてカーティスの説に反発する根拠になったのか?

そのところについては後日の投稿で。

  

この「グレートディベート」について、

膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

(マーシャ・バトゥーシャク著/地人書館)では

次のように書いてありました。

なお、本の中で「グレートディベート」は「大論争」と訳されています。

  

1920年の最も記憶に残る天文学史上の出来事は、

ワシントンDCで、ハーロー・シャプレーと

ヒーバー・カーティスが会い、

国立科学アカデミー会員の前で宇宙の構成について

議論したことだった。(中略)

この時代を画す対決は一般には「大論争」として知られているが、

実際のところ、それは適切な表現ではない。

2つの講演が続けて行われただけと言った方がよく、

この出来事は科学を対象とする出版物にさえ

取り上げられることはなかった。

天文学界では、この4月の会合にまつわる由緒ある伝説

ーその記憶は、”宇宙の巨人たち”が激しく衝突したというもので、

言ってみれば、『真昼の決闘』の天文版であるー

が、時を経て少しずつ発展し、過度に潤色されたため、

最後は対立する2つの陣営が最高の殿堂で

科学知識を戦わせて相まみえた「ホメロスの戦い」と

表現されるようになったのである。  (238p)

  

「グレートディベート(大論争)」と聞くと、

熱い討論がなされたように思えますが、

その会合の様子が書いてあるところを読むと、

「静か」なイメージがあります。

後に潤色されたイメージなのです。

  

ハッブルと同じウィルソン山天文台に勤めていたシャプレー。

(シャプレー在勤時期は1914年~1921年、

ハッブルは1919年から亡くなる1953年まで) 

シャプレーの功績は、私たちが住む太陽系が、

「天の川銀河」の中心ではなくて、

中心からは外れた場所にあることを証明したことです。

  

そのことを書いた文章を引用します。

  

彼(シャプレー)がやりとげたことは、

コペルニクスの法則にまで及ぶほどだった。

16世紀に、コペルニクスが地球を太陽系の中心から

動かしたのとちょうど同じように、シャプレーも太陽系の位置を

銀河系の心臓部から動かしたのだ。

「太陽系は中心から外れ、人類もまた結果的にそうなったが、

これは人類がそれほど大きな存在ではないことを

意味するのだから、どちらかと言えば良い考え方だ。」

(210p)

  

いいことを言うなあと思いました。

人間は自分を中心に考えがちで、

それが地動説・天動説論争になりました。

そして人類は、今度は銀河系の中心から外されたのです。

今は当たり前のことですが、当時の人たち、

それもたった100年あまり前の人たちにとっては

大きな衝撃だったようです。

  

そのような功績を残したシャプレーですが、

この「グレートディベート」での内容は、

後に間違っていたことを認めています。

間違った理由の一つが、同僚のマーネンの

渦巻きは回転しているという主張なのです。

そのことについてはすぐにでも書きたいけど、

後日にします。

「ハッブルのこと」シリーズは小休止。

2017年1月28日 (土)

ハッブルのこと その5/ウィリアム・ハーシェル

  

今日は1月26日。

  

前投稿に引き続いて

昨年11月24日放映「コズミックフロント NEXT 宇宙の革命児!

エドウィン・ハッブル」より。

  

番組の聞き書きをしていきます。

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ナレーター:↑これは天文学者ハーシェルが18世紀に描いた宇宙の姿です。

  地球を取り巻く天の川銀河↓

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  それが宇宙の全てとされてきました。

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  渦巻きがその中にあるのか、外にあるのかは、

  すなわち宇宙の広さや形を決める大問題だったのです。

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番組では、天文学者ハーシェルについては、これだけの情報でした。

しかし、

膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

(マーシャ・バトゥーシャク著/地人書館)

では、ハーシェルの人物像が興味深く書かれていました。

引用します。

 

1781年、天才的な彗星探索者シャルル・メシエが、

今日も使われている100個以上の星雲をリストしたカタログを

フランスで出版すると、少しずつ発見されていくこれらの天体の

重要性はさらに増した。(中略)

その直後、イギリスで「天文学界のプリンス」になる

ウィリアム・ハーシェルほど、メシエのリストに夢中になった者は

なかった。

ハーシェルは、メシエ・カタログが届けられるやいなや、

望遠鏡を天空の星空に向けた。

「適切な状態で調べることができるほとんどの星雲が、

私の(望遠鏡の)集光力と分解能に屈し、

星々に分解されるのを見て、とても嬉しかった」

と彼は数年後に書いている。

当時の口径30センチ、長さ6メートルの望遠鏡を使って、

ハーシェルは最初にこれらの発見をした。

ハーシェルの望遠鏡はその当時最も強力なものだった。

これを使って彼は、(今日私たちが散開星団、球状星団と呼ぶ)

星雲の多くが、実際は数百、数千の恒星からなっているのを

見ることができた。

このことからハーシェルは、「すべての」星雲は遠く離れた

恒星系だと信じるようになった。

接眼鏡を覗いてなお雲のように見える星雲もあったが、

それらは距離があまりに遠いため個々の星が

はっきり見えないだけだとハーシェルは考えたのである。

(83~84p)

  

私たちがいる銀河系の外には、

恒星をたくさん含む他の銀河系がたくさんあると考えました。

ハッブルが最終的に証明する1世紀前に。

さらにハーシェルは、そこには地球外生命体が住み、

私たちを見つめ返していると想像までしました。

想像力豊かな人です。

その当時地球外生命体の存在を想像できた人は、

きっとものすごく少ないと思います。

  

ハーシェルが天文学に没頭するのは、34歳の時でした。

それまでは音楽家として安定した生活をしていたようです。

  

引用します。

  

ひらめきは1773年5月10日に訪れた。

その日34歳のハーシェルは、一般向けの天文学書を購入した。

「望遠鏡を使ってなされた数多くの

魅力的な発見について読んだ時、

私はそのテーマに非常に大きな喜びを感じ、

それらの機器の一つを使い、自分自身の目で

天空や惑星を見たいと思いました」と彼は述べた。

そして秋には、反射望遠鏡の金属鏡の製作を始めていた。

新しい趣味の虜になったハーシェルは、

間もなくその興味を地上の音楽から

天上の音楽へと移してしまった。

彼があまりに天文学に興味を傾けたので、

すでにイギリスで一緒に暮らすようになっていた

妹のカロラインは、ハーシェルが(金属鏡の)研磨や

磨きの仕事を中断しなくていいように、

食べ物を一口ずつ手で運んで食べさせた。

自作の機器を空に向けたハーシェルは

天空を記録するようになり、1781年、

有史以来初めて新しい惑星としての天王星を発見して、

一つの頂点に達した。 (85p)

  

天王星を発見したのも、ハーシェルでした。

参考:Wikipedia ウィリアム・ハーシェル

ハーシェルは、最終的に考え方を変えてしまいます。

その過程は、記述されていました(88p)が、

少々難解でわかりませんでした。

ただハッブルが証明した

私たちの住む銀河系の外にも、たくさんの銀河系がある考えは、

決して荒唐無稽なものではなく、

すでに18世紀にはあった考え方だと知りました。

  

(まだまだつづく)

2017年1月26日 (木)

ハッブルのこと その4/渦巻き青雲が見えるようになった

  

今日は1月26日。

昨晩もハッブルのことを書こうと思ったけど、時間切れ。

今朝と今晩で2本うちたいです。

昨年11月24日放映「コズミックフロント NEXT 宇宙の革命児!

エドウィン・ハッブル」より。

  

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「調査File.2 天文学を変えた『奇跡の5年』」

この章は、じっくり聞き書きしたいと思いました。

この「5年」がいつなのか、現時点では私はわかっていません。

もう一度番組を見直して、きっちり区切りたいです。

ナレーター:宇宙の大きさは変わらない。

  人々が信じてきた宇宙の姿を、ハッブルは根本から塗り替える。

  天文史に残るターニングポイントはどのように生まれたのか。

  「奇跡の5年」を見る。

ナレーター:大型望遠鏡の登場で、飛躍的に伸びた観測技術。

  それは科学者たちに、新たな謎を突きつけました。

  「渦巻き星雲」の存在です。

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  肉眼ではぼんやりと雲のように見えていたものが、

  最新の望遠鏡で見ると、奇妙な光の渦巻きであることが、

  わかってきたのです。

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  これは当時撮影された渦巻きの写真↓

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  無数に見つかるこれらの渦巻きが、

  何でできているか?

  地球からどれくらいの距離にあるか?

  全くの謎でした。

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  このことは、人々の宇宙観を揺さぶります。

  

  

大型望遠鏡のおかげで見えたことが新たな疑問につながる。

この展開がいいですね。

そしてこれからの展開がまた面白い。

だから書き残しておきたいと思いました。

残念ながら、今朝はここまで。

手元にある仕事を片づけよう。

    

  

※後記:26日晩は結局書けませんでした。(1月28日記)

 

  

2017年1月24日 (火)

ハッブルのこと その3/フッカー望遠鏡

  

今日は1月24日。

  

昨年11月24日放映「コズミックフロント NEXT 宇宙の革命児!

エドウィン・ハッブル」より。

  

第1次世界大戦に従軍したハッブルが、

その後に就職したのはウィルソン山天文台でした。

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そしてこの天文台には、世界最大の望遠鏡が稼働寸前でした。

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フッカー望遠鏡です。

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天文台の広報であるニック・アルキモヴィチさんは、

次のように言っています。聞き書きします。

  

この望遠鏡は、鏡がとても大きいので、

1万5000キロ先のろうそくの炎でさえ見ることができます。

さらに、当時出回り始めたばかりのカメラも

取り付けられていました。

望遠鏡というより、宇宙を撮影する巨大なカメラです。

  

この望遠鏡がハッブルの大きな味方になったのです。

ハッブルがウィルソン山麓にある町に到着した1週間後の、

1919年9月11日に、フッカー望遠鏡は台員に対してのみ、

使用可能になりました。

※参考:「膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

(マーシャ・バトゥーシャク著/地人書館)285p

 

  

少しずつハッブルのことを書いていきます。

今晩はここまで。

さあ、もう寝ます。明日からまた頑張ります。

2017年1月23日 (月)

ハッブルのこと その2/「ハッブル伝説」の支配力・リック天文台

  

今日は1月23日。

  

ぶ厚い本ですが、昨日だいぶ読み進められた本が、

膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

(マーシャ・バトゥーシャク著/地人書館)です。

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421ページ中、現時点で200ページ読破。

面白い本なので、今日中に読めてしまうのではないか?

  

この本の趣旨にあたるような文章が、

序章に書いてありました。

  

引用します。

  

1929年、ハッブルはさらに驚くべき発見をした。

ハッブルとその同僚ミルトン・ヒューメーソンは、宇宙は膨張し、

それに伴い、外に向かって銀河が膨張の波に乗り続けていることを

証明する端緒となる重大な証拠を手に入れたのである。

時空は動いていたのだ!

実際は、この驚くべき結論に到達する研究の半分は、

10年前、ローウェル天文台の天文学者ヴェスト・スライファーによって、

アリゾナ州の山の頂上で行われていた。

しかし、この発見に到達するスライファーの決定的役割は、

今では学問外の世界ではほとんど忘れ去られている。

これが「ハッブル伝説」の支配力であり、

歳月がたつにつれ他の人々の貢献を影に追いやってしまったのである。

宇宙の本当の姿を明らかにすることに貢献し、

ハッブルの成功の礎となった登場人物たち全員に、

本書はもう一度余すことなくスポットライトを当てるつもりである。20p) 

 

  

「ハッブル伝説」の支配力。

この言葉が印象に残りました。

ハッブルに夢中になればなるほど、他の人が霞むのでしょう。

そうではないんだという内容の本のようです。

実際この本を200ページ読んだ段階で、まだハッブルは出てきません。

ハッブル登場前の天文台建設や天文学研究が語られています。

ハッブルの発見の礎となったことが、じっくり語られています。

  

富豪のジェームズ・リックは、天文学者に説得されて、

天文台建設に出資することを決めました。

最初は街中に天文台を建てることを考えましたが、

高い山の頂に建てる利点を言われて、標高3000mの場所に作ろうとします。

しかし結局、リックが住む街から見上げれば見られる1300mのハミルトン山に

建設されることになりました。

しかし、リックは1876年に亡くなります。

建設はその直後にスタート。1887年に完成しています。

天文台付近には、観測員たちの家族が住む町がつくられ、

「小さな科学の共和国」と名づけられました。

望遠鏡の台座に亡骸が納められたことについては、次のように書いてありました。

  

リックはこの新共和国の守護神になった。

というのも、天文学への高潔な贈り物とともに彼のわがままは死後も

決して完全には消えなかったからである。

1887年1月、望遠鏡の基礎が完成するとすぐ、

リックの遺体は山に運び上げられもう一度埋葬された。

その亡骸は、彼が出資した巨大屈折望遠鏡を支える土台の真下に眠っている。

旅行者のグループは今日でもその墓を訪れる。(39p)

そのリック天文台に雇われたジェームズ・キーラーが、

後に重要な天文学の研究をします。

功名心からの天文台建設の出資だったかもしれませんが、

リック天文台は天文学に貢献したのです。

2017年1月22日 (日)

ハッブルのこと その1/19世紀末のアメリカ天文台建設ブーム

  

今日は1月22日。

  

昨年11月24日放映「コズミックフロント NEXT 宇宙の革命児!

エドウィン・ハッブル」を見ました。

面白い番組でした。

この番組について書いていこうと思います。

そして今日から読み始めている本

膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

(マーシャ・バトゥーシャク著/地人書館)の内容も

つけ加えていきたいと思っています。

それでは番組の聞き書きをします。

  

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ナレーター:およそ100年前、人びとは天の川銀河が、

  宇宙の全てだと考えていました。

  ところがハッブルは、その外側に広大な宇宙があり、

  それが今も広がり続けていることを発見したのです。

  世間は大騒ぎになりました。

  「コロンブスは世界の半分を発見したが、

  ハッブルは新たな宇宙を発見した」(当時の新聞記事)

  「ハッブルはガリレオ以降の400年で

  最大の発見を成し遂げた人物です」(現カーネギー天文台長)

  いったいどんな人物だったのでしょうか。

  (中略)

  20世紀もっとも偉大な天文学者と言われるエドウィン・ハッブル。

  知られざる人物像と大発見の舞台裏に迫ります。

  

こうして始まった番組でした。

番組は19世紀末のアメリカの天文台建設ブームを紹介。

19世紀末、アメリカは空前の好景気を迎えていました。

  

ナレーター:鉄鋼、自動車、石油などの重工業が飛躍的に発展。

  富を手にした富豪たちは、都市には高層ビルを、

  そして地方にはあるものを建てていきます。

  天文台です。

  1887年、当時世界最大の望遠鏡を備え付けた

  リック天文台が建設されます。

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  カリフォルニアの企業家、ジェームズ・リックが

  建設資金を賄(まかな)いました。

  10年後、その記録を抜いたのが、シカゴの鉄道王

  チャールズ・ヤーキスが建てたヤーキス天文台です。

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  冥王星を発見したローウェル天文台が建てられたのも、この時代。

  ボストンの資産家、パーシヴァル・ローウェルが建てました。

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このように、19世紀末のアメリカでは富豪が

天文台建設に出資しました。なぜ?

同じく天文台建設に出資したカーネギーの言葉が残っています。

解明されたていない謎を解くために、

世界中の科学者がアメリカを目指すことを願っている

産業や経済でトップにあったアメリカが、

科学でもトップになることを目指したのです。

  

ハッブルも1917年にカリフォルニアにできた

ウィルソン山天文台に就職して研究を始めています。

そのことについては、後の投稿に書きます。

  

リック天文台について、番組ではより詳しく紹介していました。

  

番組中の小コーナー。

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365か所ものカーブがある険しい坂道を登ると、

リック天文台はあります。自動車で約1時間半かかるそうです。

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世界で初めての山岳天文台です。

望遠鏡の台座には、何とリックのお墓があります。

亡骸(なきがら)が台座の中にあるのです。ビックリ。

そうまでして名を残したかった?

でも多額の出資をしたなら、そうでもしたかったのでしょう。

その墓標です↓

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リックは、天文台の付近に観測員やその家族が暮らす町も作りました。

学校や警察、郵便局もありました。

「科学者の楽園」と呼ばれました。

当時の写真です↓

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今もこの町は残り、15世帯の家族が住んでいるそうです。

このリック天文台については、

本「膨張宇宙の発見~ハッブルの影に消えた天文学者たち~

にも興味深いことが書いてあったので、

次の投稿で書いてみます。

  

2017年1月21日 (土)

日めくりより トランプのマーク/尸と水・比・米

  

今日は1月21日。

 

久々、日めくり「雑学王」(TRY‐X)より。

  

「トランプのハートマークの本来の形は?」

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トランプの4つのマークには、このようなルーツがあったのですね。

調べていて、新しい言葉を知りました。

「スート」です。Wikipedia スートよると・・・

  

スート(英語: suit)とは、トランプ、

あるいはタロットの小アルカナに書かれているマークの事。

  

トランプのハートとかクラブなどもスートです。

  

  

「『尿』と書いて、なぜオシッコを意味するのか?」

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面白い話です。

調べたら、「尿」「屁」の他に「屎」という漢字もありました。

米はくその形だそうです。

つまり「屎」は「くそ」と読みます。

参考:「常用字解」(白川静/平凡社)

「糞」以外に「屎」という漢字があるのを初めて知りました。

「尿」「屁」「屎」のこと、他の人に話をしたいけど、

ちょっと憚(はばか)るところもあるなあ。    

  

2017年1月19日 (木)

「真田丸」シリーズ31 次の大河ドラマの宣伝シーン/久々のオリオン座

 

今日は1月19日。

  

今週の月曜日の晩は、9時半くらいまで仕事。

帰宅しようと勤務校の玄関から外に出た時に、

一緒にいた人が「オリオン座がよく見える」とつぶやきました。

その言葉で、私も空を見上げました。

  

この時期、この時間、

オリオン座はどこにあるかは承知しています。

その位置にオリオン座はデーンとありました。

  

お久しぶりです。

この冬、オリオン座を見たのはもしかして初めて。

ご無沙汰していました。

そうだよ、この時期には、オリオン座を眺めながら、

自転車で帰ることが多かったのに。

どうやらこの冬は心に余裕がないようです。

ビックリするくらい、オリオン座のことが頭になかったです。

何かと忙しい日々だけど、

オリオン座を眺めるくらいの余裕は持ちたいですね。

  

そして道草をしよう。3日ぶり。

  

  

1月6日放映の「歴史秘話ヒストリア おんな城主 直虎のイロハ」を

見ました。

今年の大河ドラマ「女城主 直虎」の主人公、直虎が

どんな人なのかといった基本的なこと(イロハ)を知りました。

直虎は、井伊家を存続させた人なのですね。

女城主として3年間、その後は徳川家の家臣になれるように、

井伊家の少年を立派に育て上げて売り込むこともしています。

その少年が井伊直政(なおまさ)。

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井伊直政は、家康家臣となってからは、家康天下取りに貢献。

徳川四天王の一人と称されました。

武田家の兵法を受け継ぎ、鎧の色は朱色とし、

「井伊の赤備え」と呼ばれました。

赤備えを纏(まと)って兜には鬼の角のような立物をあしらい、

長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は

井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられました。

※参考:Wikipedia 井伊直政

  

井伊直政は関ヶ原の戦いでも活躍しましたが、

その2年後に亡くなります。

しかし、井伊家は徳川家の重要な家臣として存続し、

大坂冬の陣では、直政次男の直孝が出陣しています。

ここで大河ドラマ「真田丸」のシーンが思い出されます。

  

昨年11月13日放映の45話「完封」から聞き書きします。

  

要塞「真田丸」の櫓の上で、徳川軍を見る真田幸村と高梨内記。

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幸村:壮観だな。

内記:相手に不足はござりませぬ。

  あちらにも赤備えがおりますぞ。

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幸村:あれは井伊直孝の陣。

  かの井伊直政の次男坊じゃ。

内記:井伊でございますか。

幸村:向こうにも、ここに至るまでの物語があるんだろうなあ。

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内記:一度聞いてみたいものですなあ。  

  

  

三谷幸喜さんのくすっと笑える企てがありました。

ちゃっかり次の大河ドラマを宣伝していました。

幸いにも「ここに至るまでの物語」を聞く機会を得た身として、

これから1年、「女城主 直虎」を見ていこうと思います。

  

  

4週間ごとに通っている内科の病院の待合室には、

毎年大河ドラマのガイドブックが置いてあります。

17日に行ったら、「女城主 直虎」のガイドブックが置いてありました。

さっそく見ました。

直虎は織田信長と同世代と書いてありました。参考になりました。

織田信長は1534年生まれで、

1582年6月に本能寺の変で亡くなりました。

直虎は1536年前後に生まれたとされていて、

亡くなったのは1582年の10月です。信長の没年と同じです。

ちなみに徳川家康は1543年生まれ。

豊臣秀吉は1537年生まれ。

三英傑が目立っていた同時代に、頑張っていた人でした。

さあ、今日も1日、私も頑張ろう。

2017年1月15日 (日)

2006年9月16日竜爪山との比較

 

今日は1月15日。

  

1月9日に登った竜爪山は、以前登ったことがあると言われても

情けないことに思い出せませんでした。

でも帰りがけに寄った平山温泉はよく覚えていました。

  

具体的に2006年9月16日に登ったと教えてもらい、

写真を調べました。

そしたらちゃんと登っていました。

今のように文章は残っていません。

写真のみです。

でもこうやって自分が撮った写真が残っているのに、

覚えていないのは寂しいなあ。

  

10年以上前と今回を比較したくなりました。

  

2006年↓

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↑初代フォレスターです。

こうやって駐車したのですね。

  

2006年↓

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↑この時は新道から登りました。

今回と同じメンバーです。

今回はここがゴールでした。

2017年↓

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壁面に古さが出てきています。

    

  

2006年↓ 新道と旧道の分岐

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2017年↓

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同じような場所を撮影するんだなあと思いました。

少し変わったかな?

  

  

2006年↓ 穂積神社

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2017年↓

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2006年↓ 神木

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2017年↓

Rimg2331_2

↑しめ縄がなかったなあ、今回は。

  

  

2006年↓ 薬師岳頂上

P9160012  

2017年↓

Rimg2315_2

↑微妙に変わっているぞ。

  

  

2006年↓ 文殊岳からの景色

P9160013

2017年↓ 

Rimg2307

2006年も富士山は拝めなかった模様。

写真がありませんでした。

  

 

2006年↓

P9160019

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2006年はホトトギスを楽しんでいます。

  

  

2006年↓ 道白山頂上

今回と全く逆コースだったのですね。

P9160021  

2017年↓

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黄色いのは同じ標識ですね。

  

  

2006年↓ 平山温泉

P9160030

2017年↓

Rimg2361_2  

垣根がなくなっているぞ。

 

  

2006年↓ 平山温泉

P9160031  

2017年↓

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この置物は不動だったのですね。

すっかり忘れていました。

でもこうやって比較するのは面白かった。

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