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2012年4月23日 (月)

「戦火に消えた幻のエース」 広瀬習一と神田武夫

  

今日は4月23日。再スタートから10日目。

     

以前、戦前の巨人軍で投手として活躍し、

戦争に召集され、戦死した広瀬習一選手のことを書きました。

「日本プロ野球復活の日」2 野口明/広瀬習一」html

   

もっと詳しく知りたいと思い、

本「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」を読みました。

Kairi1958-96319

著者の上田龍さんは、野球史研究者という肩書もあり、

この本の中でも、文章の下に関連のミニ知識が書かれていて、

読破した時には、戦前戦後の野球に詳しくなった気分になりました。

  

1941年のシーズン途中に巨人に入団。8勝。

そして翌年1942年には21勝。

沢村栄治の力が衰え、スタルヒンが重病で、

巨人投手陣が手薄な時に、巨人に貢献した投手、それが広瀬習一投手でした。

この本で、広瀬習一には、高校時代からのライバル神田武夫(南海入団)の存在が大きかったことを知りました。

南海と対戦して、相手が神田だと、広瀬は燃えたようです。

   

下の写真は、「戦火に消えた幻のエース」より。

EPSON089広瀬習一広瀬習一

EPSON090神田武夫神田武夫(かんだたけお)

   

神田武夫について引用します。

   

神田武夫(1922-1943年)

京都市出身。京都商では快速球と鋭いカーブを武器に「沢村二世」の異名を取り、

1940年春の選抜では決勝に進出するが、大島信雄を擁する岐阜商に惜敗。

卒業後南海に入団し、1年目(1941年)に25勝、翌年も24勝をマークしたが、

これは南海の2シーズンの勝ち星92の半分近い数字だった。

京都商卒業前から胸を患っており、プロ入り後は肺結核を発症。

1943年、開幕から欠場して療養に努めたが、

7月27日、京都の自宅で22歳の若さで世を去った。

現役時代の背番号「19」は、戦後、野村克也が背負ったことでも知られる。  (66p)

   

戦争に多くの選手が召集されていたため、投手の人数も少なかったようです。

その中で酷使された・・神田投手も進んで投げたようです。

その結果体を壊し、死期を早めたと思います。

24勝した翌年に亡くなってしまうなんて・・それも22歳。無念だったと思います。

   

そして翌年の1944年に広瀬習一も戦地で亡くなります。

日本プロ野球復活の日」(鈴木明著/集英社文庫)では、

その死については詳しくは書いてありませんでしたが、

この本には書いてありました。

1944年9月13日。フィリピンレイテ島での戦闘中、

本部に応援を求めに行く役を志願し、川を横切っている最中に銃撃され、

習一は激流に流されてしまったそうです。

   

1941年~42年に、巨人と南海で活躍した2人の投手。

もっともっと野球をしたかったのに、結局戦争がそれを阻みました。

この本は、2人の伝記になっているなと思って読みました。

こんな2人がいた。ちゃんといた。

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